ミュンシュ指揮パリ管 ブラームス 交響曲第1番(1968.1.8&12録音)

空前絶後の、衝撃のブラームス。
10代の頃、初めて耳にして虜になった1枚。灼熱という表現が正しいのかどうなのか、いまだ耳の肥えていない少年にとって、ほぼ最初の演奏がこれだったのだから堪らない。

当時、吉田秀和さんの論評を読み、僕は納得して一層はまった。

シャルル・ミュンシュは独仏両国の間で領土争いのあったストラスブールの出身であり、この街は彼の生まれたそのころは、たまたまドイツ領であったためか、彼がまた、ライプツィヒのゲヴァントハウス・オーケストラのコンサートマスターをつとめていたころ、当時、このオーケストラの常任指揮者であったフルトヴェングラーから指揮を学んだということになっているのは、誰も知っている。そうして、そのあと、フランスに行き、パリで指揮者としての輝かしい経歴を踏みだすことになったのも。
「吉田秀和全集5 指揮者について」(白水社)P189

環境や体験、あるいは出会う人の縁によって人の性質は作られるという説はあながち間違っていないのだろう。すべての原点は人・事・物すべての縁にあるのだと思う。

それにしても終始激しい、しかし同時に安寧を描き出す、熱狂渦巻く音楽が、今にも音響装置から飛び出してきそうな勢いで鳴る様(何より終楽章!!)に、音楽の真実とは、それを演奏する人の情念と理念の双方に左右されるものなのだろうとつくづく思う。特に最晩年のミュンシュの指揮は、老練ということもあろうが、均衡に優れている。

何しろ、ド・ゴール政権の文化相アンドレ・マルローが国威宣揚か何か知らないが、大きな抱負をもって編成のきも入りをしてオルケストル・ド・パリが生まれたのが1967年。ミュンシュがその初代の音楽総監督に任命され、「あの大の練習ぎらいの人物が、新しいオーケストラを育成する義務を負わされ、どうするのだろう?」などとヨーロッパの楽壇雀どもが取沙汰していたその噂のまだ完全に消えきらない1968年の秋に、楽壇披露の巡演中のアメリカで、77歳をもって、永遠の眠りについてしまったのだった。だから、ミュンシュがオルケストル・ド・パリを宰領していた期間は1年そこそこしかない。
~同上書P192

これは、同じくパリ管弦楽団を指揮して最晩年に録音したラヴェルの「ダフニスとクロエ」第2組曲を激賞する吉田さんのコメントの一部だが、わずか1年余りの縁と特別の逢瀬(?)というものが、そして、練習嫌いだったからこその育成義務というストレスが、演奏において結果良い方に傾いたと考えるのが正当だろうと僕は思う。

・ブラームス:交響曲第1番ハ短調作品68
シャルル・ミュンシュ指揮パリ管弦楽団(1968.1.8&12録音)

もはや語り尽くされた感のあるミュンシュ指揮パリ管によるブラームスの交響曲第1番の圧倒的素晴らしさに言葉がない。何より邪道とわかっていてそれでも思わず興奮を呼ぶ終楽章コーダの追加ティンパニの効果よ!!(参考までに、ミュンシュやトスカニーニの改変については作曲家の大輪公壱さんが某ブログに興味深いコメントをされている
学術的には(いや、倫理的にもそうか?)、確かに作曲家の決定稿に補筆するのは大いに問題ありだろうが、音楽の即興性という観点からするとまったくもって許される範囲だと個人的には考えるのだけれど(何も楽譜に忠実であることばかりが能ではないということ)。

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