大クープランの言葉遊び。
特に日本人は標題付きの作品に惹かれるようだ。
数多のクラヴサンのための組曲たちにも、エリック・サティさながら風変わりな(?)標題が付されている。そもそも標題が気になって耳にする音楽もあれば、音楽そのものに惹かれて標題は後から知るという場合もある。
昔、一聴気に入った音楽の標題が「神秘な防壁」と聞いて、驚いたことがあった。おそらく日本語訳の稚拙さも手伝ってなのか(というより仏語と日本語のニュアンスの違いも影響しているだろう)、音楽の内容と標題とがどうしても結びつかなかった。しかし逆に、そのことがまた奏を効してか、変わったタイトルが作品の人気に大きな影響を与えているようにも思った。とにかく全編美しく、またポピュラリティに富み、心に染み入る音楽だった。
全集からのベスト盤。
第13組曲の「葦」に、パスカルを思った(何の連関もないけれど)。「パンセ」第6編「思考の尊厳」の中で彼は言う。
人間は一茎の葦にすぎない。自然のうちでもっとも弱いものである。だが、それは考える葦である。かれをおしつぶすには、全宇宙が武装するにはおよばない。ひと吹きの蒸気、ひとしずくの水が、かれを殺すのに十分である。しかし、宇宙がかれをおしつぶしても、人間は彼を殺すものよりもいっそう高貴であろう。なぜなら、かれは自分の死ぬことと、宇宙がかれを超えていることとを知っているが、宇宙はそれらのことを何も知らないからである。
~パスカル/由木康訳「パンセ」(白水社)P142
思考を持つがゆえ優れていると驕り高ぶる人間の不遜さが今や可笑しいほど。
宇宙はすべてを知っているはずだ。
その意味で、大クープランの「葦」はもっと謙虚だろう。
ロ短調の「葦」は、牧神パンの葦笛による妖精シュリンクスへの追悼を描くようだが、哀感溢れる音楽は、思考よりも信仰によったもののように思われる。
ちなみにパスカルは、「思考は人間の偉大を形づくる」というが、思考よりも信仰、すなわち「仁義礼智」の根本となる「信」こそが、「偉大を形づくる」鍵だと僕は思う。