老子清静経の一節。
大道は無形にして天地を生育し
大道は無情にして日月を運行し
大道は無名にして万物を長養す
吾はその名を知らず
強いて名づけて道という
大自然の働きには情けというものがない。感情に左右されることなく、ただただありのままを映し出す鏡そのものだ。しかし一方、人間はつい情にほだされ、日々事を誤ってしまうのが常。
「情にほだされぬ不撓の精神」はヴァルキューレであるための必須条件。ヴォータンの命ずるとおりに、戦う男たちに生死の命運を割り振るのが彼女たちの仕事だが、死んでゆく者に対して憐憫の情を抱いてしまったら、機械的に生死を割り振る作業はむずかしくなる。人間の運命を扱う仕事の前提として、人間と同じレベルの感情を抱くことは許されない。
~日本ワーグナー協会監修/三光長治・高辻知義・三宅幸夫・山崎太郎編訳「ヴァルキューレ」(白水社)P121
ヴォータンにせよワルキューレにせよ、彼らは今や人間同様欲深い。否、彼らも真の姿はそうでなかったのかもしれない。いつのまにか我執、我にまみれた姿に変貌していった。
ヴォータンの意志そのものであったブリュンヒルデが別途に「我を通し」て事を行なった時点で、すでに彼女はヴォータンのWunschmaid(願望を体現する乙女)ではなくなっていた。また、ヴァルキューレであった彼女が、仕事の対象である人間ジークムントの「情にほだされ」、憐れみを抱いた時点で、冷酷に生死を割り振るヴァルキューレの機能は停止していた。人間的な感情を抱いてしまったブリュンヒルデはもはや神ではありえず、したがってヴォータンの宣告する神々の世界からの追放も、彼自身の決定による罰というよりは、ブリュンヒルデの行為が招いた当然の帰結にすぎない。
~同上書P123
神々であろうと油断はできないということだ。我というものの怖ろしさよ。
1937年には《指環》をベルリンとロンドンで2回指揮した。ロンドンの《指環》はジョージ6世戴冠式奉祝の新演出公演であって、フリーダ・ライダーが第1チクルス、キルステン・フラグスタートが第2チクルス、というのが呼び物だった。公演はビーチャム卿の仲間で進取の気性に富んだウォルター・レッグという名の若いプロデューサーが取り仕切った。当時は誰も、とりわけフルトヴェングラーには想像もできなかったが、かなり遠い未来に、レッグはフルトヴェングラーの運命を左右する強い力を持つことになる。長く続く2人の関係は幸先のよいものとして始まった。この公演はフルトヴェングラーにとって大成功だった。
~サム・H・白川著/藤岡啓介・加藤功泰・斎藤静代訳「フルトヴェングラー悪魔の楽匠・上」(アルファベータ)P347
フルトヴェングラーの「ワルキューレ」は、最後の録音となったEMI盤含め幾種類かあるが、最初のものである(残されたのは第3幕だけだが)1937年ロンドン公演は、フラグスタートのブリュンヒルデ、そしてボッケルマンのヴォータンの思念がぶつかり合う第2場から第3場の鬼気迫るやりとりが見事に音化されている。
HMVが光学的手法を用いてこの公演の実験的録音をおこなった。その中のフラグスタートがブリュンヒルデ役で出演した《ヴァルキューレ》(第3幕全曲、5月26日)と《神々の黄昏》(抜粋、6月1日)が、最近広く普及するようになった。フラグスタートの歌手生活の中の、この時期における身震いするようなすばらしい歌唱法(たとえば《神々の黄昏》プロローグの終わりの部分では壮麗なハイC音を長く響かせて有終の美を飾った)もいいが、それとは別に、フルトヴェングラーはロンドン・フィルハーモニックから、抑制され張り詰めたメロディーを引き出した。またメルヒオール、マリア・ミュラー、ルドルフ・ボッケルマン、ヘルベルト・ヤンセンなど他のキャストの歌手たちからは、白熱的な輝きを引き出した。フルトヴェングラーがフラグスタートの声にすっかり惚れ込んでしまったのはたしかだった。
~同上書P348
1930年代後半の実験的録音が、鑑賞に十分耐え得る形で残されていることが何より嬉しい。
コヴェント・ガーデンでの実況録音。フラグスタートのブリュンヒルデは間違いなく意味深く、また神がかる。しかし、それ以上にフルトヴェングラーがロンドン・フィルをワーグナー・オーケストラとして見事に統率し、暗い、デモーニッシュな響きを醸成している点が素晴らしい。戦争前夜の不穏な空気の中で彼らは一体何を思うのか?
終演後の聴衆の拍手が実に空虚に思われるが、しかし、当日当夜のその場にいた人々に与えた感動は他の何物にも代え難いものだったであろうことが容易に想像できる。
終結に向かって、手綱を引き締めるフルトヴェングラーの方法は、緊張感を維持したまま最後の告別のシーンを迎える。ここでのボッケルマン(ヴォータン)の歌唱の堂々たる音響は、古い録音を超え、魂にまで直接に響く。
フルトヴェングラーの「ワルキューレ」は実に人間的だ(終曲のポルタメントのかかった前時代的浪漫の弦の音色が妙に懐かしい)。このドラマティックな表現は、我にまみれたブリュンヒルデやヴォータンの苦悩、神々の終末を描く方法としては打ってつけだろう。
[…] 粋ながら、1937年6月のロンドンはコヴェントガーデンでの楽劇「神々の黄昏」(5月26日の「ワルキューレ」に続く)は、第二次世界大戦前の欧州の緊張感(?)を如実に表すような暗澹 […]