カラヤン指揮ベルリン・フィル R.シュトラウス ツァラトゥストラはかく語りき(1983.9録音)ほか

僕にとっての「ツァラトゥストラ」の原点。いや、正確には映画でウィーン・フィルとのモノを導入部だけ(当時は)聴いていたのだけれど。

この作品はニーチェの著作を音楽化したものではない。シュトラウスは人類の起源から超人の概念への発展を音楽によって描いたそうで、キューブリック監督の「2001年宇宙の旅」は監督がそのことを知っていてあえて映画の主題曲に設定したのだろうか。20世紀以降は人類の(心の)退化(?)が一層顕著になる中で彼は何を思ったのか。

ニーチェ主義者としてのシュトラウスの二つの相貌が、ここには正確にとらえられている。すなわち「力」と「笑い」である。
岡田暁生著「作曲家◎人と作品リヒャルト・シュトラウス」(音楽之友社)P79

緊張と緩和という対比にもみてとれる。それは、文字通り「呼吸」でもある。
かの音楽に息づく生命は、いかにも無機的な、上辺の音楽の錬磨だけを志向したかのようなカラヤンの、血沸き肉躍る、実に有機的な解釈と指揮で聴く者を鼓舞せんと見事に音化されている。

強烈な反権威的精神と「笑い」も、この時代になって初めて現れてくる。《ティル》や《ツァラトゥストラ》のクライマックスでは、全オーケストラがしゃっくりを起こしたみたいに痙攣しながら笑いこける。
~同上書P81

嘲笑こそシュトラウスの墓碑銘と言えまいか。
猛烈に高邁な精神を、外面的と揶揄し、嫌う者も多数あろうが、それはカラヤンについても同様。それゆえにウマが合ったのかどうなのか、カラヤンのシュトラウス演奏には定評がある。いや、少なくとも僕は20世紀の指揮者の中で随一だと思うのだ。

リヒャルト・シュトラウス:
・交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」作品30(1983.9録音)
・交響詩「ドン・ファン」作品20(1983.11録音)
トーマス・ブランディス(独奏ヴァイオリン)
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

導入部の理想的テンポと官能はカラヤンならでは。その音調は相対の中で変質し、次の「背後世界の人々について」に引き継がれる。

まことに、あらゆる存在は、証明することが困難であり、また話しださせることが困難である。わたしに言え、きみら兄弟たちよ、あらゆる諸事物のなかで最も不可思議なものが、いまなお最もよく証明されてはいないか?
そうだ、この自我と、そして自我の矛盾と混乱とが、いまなお最も正直にみずからの存在について話す。諸事物の尺度であり価値であるところの、この創造し、意欲し、評価する自我が。

ニーチェ全集9/吉沢伝三郎訳「ツァラトゥストラ(上)」(ちくま学芸文庫)P58

自我とはすなわち情であり、官能だろう。続く「大いなる憧れについて」の静けさの中で人は何を思うのか(ホルンのかそけき旋律美!)。

おお、わが魂よ、今やわたしはおまえに一切を、そしてわたしの最後のものをも、与えた、あくて、わたしの両手は、おまえのためにすっかり空になってしまった。—わたしがおまえに歌えと命じたこと、見よ、それこそわたしの最後のものであったのだ!
ニーチェ全集9/吉沢伝三郎訳「ツァラトゥストラ(下)」(ちくま学芸文庫)P154

あるいは、「喜びと情熱について」はシュトラウスの顕示欲の顕現であり、その音響の内に身を委ねたときの快感たるや!

人間は、超克されなくてはならないところの、何ものかである。だからこそ、きみはきみの諸徳を愛すべきなのだ—。というのは、きみはそれらの諸徳によって破滅するであろうから。—
ニーチェ全集9/吉沢伝三郎訳「ツァラトゥストラ(上)」(ちくま学芸文庫)P67

一見厭世的に思える思想も、すべてを喜びで受け入れることができたらという観点で解釈すれば楽観になろう。そんな中でシュトラウスは「埋葬の歌」を歌うのだ。

そうだ、わが身には、或る傷つけえないもの、葬りえないものがある、岩をも爆破する或るものが。これぞすなわち、わたしの意志だ。幾年を通じて、黙々と、変わることなく、それは歩み行く。
~同上書P202

超人に至る過程とは、僕たちすべてに内在する真我良心を発見することに等しいだろう。この身が滅んでも永遠に滅びることのない本性よ。また、「科学について」の重苦しい冒頭から光が差し込む後半のカタルシス。

すなわち、恐怖は—われわれ(人間)にとって例外的なことなのだ。それに反して、勇気こそ、冒険こそ、不確実なものや敢行されたためしのないものに打ち興ずることこそ、—(要するに)勇気こそが、わたしには、人間の前歴の全体をなすように思われる。
ニーチェ全集9/吉沢伝三郎訳「ツァラトゥストラ(下)」(ちくま学芸文庫)P304

音楽はいよいよクライマックスに向け咆哮する。「病より癒え行く者」の恐るべき外向性!覚醒の一歩手前にある人は、ついに入口(出口?)を発見するのだ。

一切は行き、一切は帰って来る。存在の車輪は永遠に回転する。一切は死滅し、一切は再び花開く。存在の年は永遠に経過する。
~同上書P142

しかし、ニーチェですら輪廻を超えることができなかった。あるいは彼は、輪廻を超える術を見出すことはできていなかった。その苦悩を嘲るようにシュトラウスは音化する。そして、踊る。

そなたら美しい舞踏者たちよ、わたしがこの小さな神を少々こらしめても、わたしに腹を立てないでおくれ! 彼はきっと悲鳴をあげ、そして泣くであろう、—しかし彼は、泣いているさいにも、笑いの種になるのだ!
かくて、目に涙をたたえて、彼はそなたたちに舞踏の相手を願うことであろう。されば、わたし自身も、彼の舞踏に合わせて、歌を一つ歌おう。

ニーチェ全集9/吉沢伝三郎訳「ツァラトゥストラ(上)」(ちくま学芸文庫)P193

ここでツァラトゥストラが歌うのは悪魔への嘲弄の舞踏歌だ。シュトラウスのペンが冴える!
最後のパート「さすらい人の夜の歌」では、悟りの安寧が神々しいまでの音楽によって表現されるのか。

夜だ。いまや、ほとばしり出る泉のすべてが、一段と声高く話すのだ。そして、わたしの魂もまた、一個のほとばしり出る泉である。
夜だ。いまや初めて、愛する者たちの歌のすべてが目ざめるのだ。そして、わたしの魂もまた、一人の愛する者の歌である。

~同上書P188

創造主の一分霊であることを見抜いたニーチェらしい言葉だ。すべては一に帰す。
「超人」とはまことに「真我」をとらえることのできた瞬間の奇蹟なのだと思う。その意味で、僕たち一人一人は既に「超人」だと言えよう。瞼をそっと閉じ、彼岸の歓喜を想像したときの静かなドラマによって音楽は優しく閉じられる。

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