アキモフ ベリフ タルーホフ ロジェストヴェンスキー指揮モスクワ・オペラ・シアター管 ショスタコーヴィチ 歌劇「鼻」(1975.6録音)

挑発的で刺激的。
初めて聴いたときは正直ぶっ飛んだ。
しかし、今ならその魅力は十分にわかる。

人々は《鼻》のなかに風刺とグロテスクを見いだしているが、わたしはまったく真面目な音楽を書いたつもりで、そこにはパロディーも喜劇的なものもない。音楽で洒落をいうのはかなり困難なことだ。
ソロモン・ヴォルコフ編/水野忠夫訳「ショスタコーヴィチの証言」(中公文庫)P363

いたって真面目なショスタコーヴィチ。ゴーゴリ原作の物語の奇天烈さも飛び切りながら、やはり若きショスタコーヴィチの歯に衣着せぬ(?)物言い、そして前衛。

《鼻》は滑稽ではなく、恐ろしい物語である。いくら警察が強制しようが、滑稽なものにはどうしてもならない。そこへ行っても警官ばかりで、一歩も歩けず、紙一枚といえども投げ捨てることができない。《鼻》に登場する群集も、やはり滑稽ではない。一人一人を考えれば、格別にとり立てていうこともなく、ただいくぶん奇妙なところが目立つだけだ。ところが、それがまとまって集団となると、血を欲する群集と変わるのである。
~同上書P364

20世紀の乱暴な群集心理をいかにも言い当てた、その音楽の攻撃性とあわせて実に聴く者の深層を刺激する歌劇よ(果たして「歌劇」と言っていいのかどうなのか?)。

・ショスタコーヴィチ:歌劇「鼻」作品15
エドゥアルト・アキモフ(プラトン・クジミッチ・コワリョフ、バリトン)
ワレリー・ベリフ(イワン・ヤーコウレヴィチ(床屋、バス・バリトン)
ボリス・タルーホフ(警察官、カウンターテナー)
ボリス・ドルジーニン(イワン、テノール)
アレクサンドル・ロモノソフ(鼻、テノール)
リュドミラ・サペギナ(ペラージャ・グリコリエヴナ・ポトチーナ、メゾソプラノ)
ニーナ・サスロワ(ヤーコウレヴィチの妻プラスコーヴィヤ・オーシボウナ、ソプラノ)
アショト・サルキソフ(医者、バス)、ほか
ゲンナジー・ロジェストヴェンスキー指揮モスクワ・シアター・オペラ管弦楽団&合唱団(1975.6録音)
・ショスタコーヴィチ:エルヴィン・ドレッセルの歌劇「貧しいコロンブス」のための2つの小品作品23
—序曲(1979録音)
ゲンナジー・ロジェストヴェンスキー指揮レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団
—終曲(1984録音)
ゲンナジー・ロジェストヴェンスキー指揮ソビエト文化省交響楽団&合唱団

序曲から激しくも強烈なリズムと音響に度肝を抜かれる。金管群の咆哮はショスタコーヴィチならでは。何よりモスクワ・シアター・オペラ管弦楽団の途轍もない技量に感嘆。特に間奏曲各々の独創性とあまりの刺激。
ここには天才ショスタコーヴィチのすべてが包括されていると言っても言い過ぎではないだろう。本人の言葉通り、狙ったものは一切なく、あくまで真面目に尊敬するゴーゴリを純粋にオペラ化した、ということだ。

そして、第1幕第3場コワリョフの寝室のシーンでの音楽は、一聴いかにもショスタコーヴィチというアイロニカルな喧騒に満ちたもので実に愉快だ。あるいは、もちろんこの短いオペラの中に「美」がないということではない。後の作曲家を髣髴とさせる懐かしい(?)旋律があり、暗澹たる風趣ながら深い瞑想を示す第1幕第4場カザン大聖堂の場におけるコワリョフと鼻の邂逅よ。

さて、我が広大なるロシヤの北方の首都に突発した事件というのは、以上のようなものであった! つらつら考えて見るに、どうもこれには真実らしからぬ点が多々ある。鼻が勝手に逃げ出して、五等官の姿で各所に現われるというような、まるで超自然的な奇怪事は暫く措くとして—コワリョフともあろう人間に、どうして新聞に鼻の広告など出せるものでない位のことが分からなかったのだろう?
ゴーゴリ作/平井肇訳「外套・鼻」(岩波文庫)P122

世界が茶番であることをゴーゴリもわかっていたようだ。

それもこれも、いや場合によってはそれ以上のことも、勿論、許すことが出来るとして・・・実際、不合理というものはどこにもあり勝ちなことだから—だがそれにしても、よくよく考えて見ると、この事件全体には、実際、何かしらあるにはある。誰が何と言おうとも、こうした出来事は世の中にあり得るのだ—稀にではあるが、あることはあり得るのである。
~同上書P123

そしてまた、ゴーゴリを愛するショスタコーヴィチがそのことをわかっていたのは当然か。

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