バックハウス ベートーヴェン ピアノ・ソナタ第29番変ロ長調作品106「ハンマークラヴィーア」(1952.4録音)

純粋に音楽的視点から言えば、作品が成立した経緯や作曲家の思いなど無関係なのかもしれない。しかし、個人的に僕は、歴史や個人史、あるいは作曲のプロセスに興味があり、その真実が見えることで、その作品の真髄が一層理解できるという体験をこれまで幾度もしてきた。
そう、「わかった」途端に「見える」のである(まさに、英語の”I see!!”という言葉通りだ)。

1819年3月3日《ミサ・ソレムニス》作曲の意思表示をした書簡に、このソナタの第1・2楽章の自筆譜が添えられている。しかしのちに返却を求めたらしく、1820年代に作成された大公文庫カタログにその記載がない。こうした経緯からも透けて見えるが、《ミサ・ソレムニス》作曲の意思と《ハンマークラヴィーア》ソナタは深い関係にある。そのことが実はスケッチ帖においてすでに明らかなのである。
大崎滋生著「史料で読み解くベートーヴェン」(春秋社)P356

ハンマークラヴィーア・ソナタはもとよりルドルフ大公のために作曲された作品だったらしい。そういう事実を浮かび上がらせた大崎さんの執念(?)の研究成果に拍手喝采。
詳細の引用は避けるが、納得だ。

「期待」とは課題をやってみなさい「期待しているよ」の意で、時間軸で最後に位置する「成就」とは「やったあ!」であり、1年前の「期待」に対する応えとしてペアの関係にある。このふたつは「ルドルフ万歳」(最初のスケッチで認められた第1楽章冒頭主題にラテン語”Vivat Rudolphus”で書き込まれているもの)から引き出されている、そしてそれは《ハンマークラヴィーア》ソナタが立ち現れた最初のスケッチである、ということに注目しなければならない。「成就」は大司教就任のみならず、ルドルフが作曲の学習において長足の進歩を示し、主題を与えて変奏曲を書かせるほどに成長したことに対する、ベートーヴェンの素直な歓びであるとすれば、「万歳」と共通する歓喜の感情の表出と見ることができる。《ハンマークラヴィーア》がルドルフ大公に献呈することを前提に大公のために書かれたという意味では、《告別・不在、再会》ソナタと双璧を成しているが、しかしそれに留まらず、《ミサ・ソレムニス》作曲の意思が固まっていく途上にこの作品があることがきわめて重要である。
~同上書P356-358

この記述を読んだ瞬間に僕は身震いした。おそらくルドルフ大公のピアノの腕前は、この難曲を容易に演奏できるほど進化していたのだろうと想像する。

Rudolf Johannes Joseph Rainer, Erzherzog von Österreich (1788-1831)

ヴィルヘルム・バックハウスの2つ目の全集に「ハンマークラヴィーア」ソナタが欠けたことは世界的痛恨事だ。(ただし、今やバックハウスの演奏を凌駕するものは多々あるけれど)

・ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第29番変ロ長調作品106「ハンマークラヴィーア」
ヴィルヘルム・バックハウス(ピアノ)(1952.4録音)

久しぶりに聴いたアナログ・レコードの10枚組セットから(SL1157-66)。
速めのテンポで、思念を込めず、ただひたすらに音楽を創造する様子に「鍵盤の獅子王」なる渾名はもはや似合わない。すべてが自然体。何より第1楽章アレグロ第1主題が「ルドルフ万歳」に呼応することを知るにつけ、これまで以上に愛着が湧く。また、第2楽章スケルツォ(アッサイ・ヴィヴァーチェ)も冷静な、客観的な(?)響き。

続く第3楽章アダージョ・ソステヌートが素晴らしい。「ミサ・ソレムニス」の精神と同期する、大公への信と、大公自身の信仰をサポートせんとする意志がバックハウスによって見事に再現されるのだ。

閣下が私をあなたの大切なもののひとつに挙げておられるとすれば、私は自信たっぷりに言うことができます、閣下は私にとって宇宙で最も大切なもののひとつです、私は宮廷人でもないし、閣下は私のことを、単なる打算的な利害の人間ではなく、真の内的なつながりが私をいつも閣下に結びつけ魂を与えられている、とよくご存じだと信じています。
(1820年4月3日付、ルドルフ大公宛書簡)
~同上書P366

そして大いなる終楽章ラルゴ—アレグロ・リゾルートには、晩年のベートーヴェンの「皆大歓喜」の思想が反映されており、少なくともそのフガートにはルドルフ大公との魂の強固なつながりとその意思が見え隠れする。何という凄い音楽なのだろう。

閣下の聖名祝日に書いた私の手書きによる2曲に加えて、別のもう2曲があり、その後者は大フガートで、大ソナタを終わらせるものでして、それはまもなく出版されますが、すでに長らく前に私の心からまったく閣下にと考えていました。
(1819年3月3日付、ルドルフ大公宛書簡)
~同上書P363

「ハンマークラヴィーア」ソナタはルドルフ大公の委嘱ではなかった。
ベートーヴェン自身の「絆の証」としての(「ミサ・ソレムニス」と双璧の)大作だったのである。

内田光子 ベートーヴェン ハンマークラヴィーア・ソナタほか(2007.4&5録音)を聴いて思ふ ワインガルトナー指揮ロイヤル・フィル ベートーヴェン ハンマークラヴィーア(管弦楽版)(1930.3録音)ほかを聴いて思ふ グリゴリー・ソコロフのシューベルト&ベートーヴェン(2013Live)を聴いて思ふ グリゴリー・ソコロフのシューベルト&ベートーヴェン(2013Live)を聴いて思ふ ソロモンのベートーヴェン作品106&作品111を聴いて思ふ ソロモンのベートーヴェン作品106&作品111を聴いて思ふ ポリーニの弾くベートーヴェンの作品106を聴いて思ふ ポリーニの弾くベートーヴェンの作品106を聴いて思ふ バックハウスのベートーヴェン:ピアノ奏鳴曲全集(SL1157-66) バックハウスのベートーヴェン:ピアノ奏鳴曲全集(SL1157-66)

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