エンジニア、どうかお聞きください。どうかよく心にとめておいていただきたいのですが、死に対して健康で高尚で、そのうえ—これはとくに申添えたいことですが—宗教的でもある唯一の見方とは、死を生の一部分、その付属物、その神聖な条件と考えたり感じたりすることなのです。—逆に、死を精神的になんらかの形で生から切り離したり、生に対立させ、忌わしくも死と生を対立させるというようなことがあってはならないのです。それは健康、高尚、理性的、宗教的の正反対共いえましょう。古代人は、彼らの石棺を生命や生殖の寓意のみならず、淫猥な象徴で飾りさえしました。—つまり古代人の宗教心からいえば、神聖なものは淫猥なものと同意義である場合がきわめて多かったのです。古代人は死を尊敬する道を知っていたともいえます。死は生の揺籃、更新の母胎という意味で、尊敬さるべきものなのです。生から切り離された死は、怪物、漫画—そしてさらに厭うべきしろものになりさがるのです。
~トーマス・マン/高橋義孝訳「魔の山」(上巻)(新潮文庫)P419
セテムブリーニ氏の言葉に膝を打つ。陰と陽の一体で成り立つ世界にあって、聖と俗とはもはや表裏なのである。ベートーヴェンの精神を思った。そして、その心を見事に音化した演奏があった。
若きレナード・バーンスタインの弾き振り。
ピアノと管弦楽が見事に連携し、音楽は優雅に、そして力強く鳴り響く。
ある意味それは大味な印象を聴き手に抱かせなくもない。
血気盛んな(?)青春のベートーヴェン。同時に、楽聖ならではの聖なる音楽よ。
その内側にはなんと脆い、シャイなベートーヴェンの本音が隠されていることか。
・ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第1番ハ長調作品15
レナード・バーンスタイン(ピアノ&指揮)
ニューヨーク・フィルハーモニック(1960.10.24録音)
ニューヨークはマンハッタン・センターでの録音。
テンポを自在に伸縮させ、自由に振る舞うバーンスタインのピアノは、管弦楽に受け継がれた瞬間に一層自由を獲得する。生を謳歌するかのようにとことん飛翔する第1楽章アレグロ・コン・ブリオの堂々たる音。続く第2楽章ラルゴは恋するベートーヴェンの愛のささやきであるかのようにバーンスタインのピアノは優しく世界を包む。
素晴らしいのは終楽章ロンドの舞踊!
歓びに満ち、希望に溢れる音楽は、ほとんど世界を制した少年の胸の内を示すかのようだ。
バーンスタインは弾け、歌う。
それでは、生命とはいったい何であったか。それは熱だった。形態を維持しながらたえずその形態を変える不安定なものが作り出す熱、きわめて複雑にしてしかも精巧な構成を有する蛋白分子が、同一の状態を保持できないほど不断に分解し更新する過程に伴う物質熱である。生命とは、本来存在しえないものの存在、すなわち、崩壊と新生が交錯する熱過程の中にあってのみ、しかも甘美に痛ましく、辛うじて存在の点上に均衡を保っている存在である。生命は物質でも精神でもない。物質と精神の中間にあって、瀑布にかかる虹のような、また、炎のような、物質から生れた一現象である。
~同上書P572
バーンスタインのベートーヴェンにあるのは熱だ。ただし、乾いた熱だ。もう少し潤いが、湿り気があっても良かったのではないかと僕は思う。