King Crimson The Great Deceiver Live 1973-1974 (1992)

信仰とは何か? いかにしてそれは生ずるのか? あらゆる信仰は真なりと思いこむことである。
ニヒリズムの極限的形式は、いずれの信仰も、いずれの真なりと思いこむことも、必然的に偽であるという洞察であろう。というのは、真の世界なるものは全然ないからである。したがって、それは遠近法的仮象であり、その源は私たちのうちにある(私たちが、より狭い、限られた、単純化された世界をたえず必要とするかぎりにおいて)。
—私たちが、徹底的に没落することなしに、仮象性を、虚言の必然性をどこまで承認しうるかは、力の度合いにかかっているということ。
このかぎりではニヒリズムは、真実の世界の、存在の否認として、一つの神的思考法であるかもしれない。

原佑訳「ニーチェ全集12 権力への意志(上)」(ちくま学芸文庫)P32-33

この世界は確かに思考に囲われた仮だけれども、しかし、仮を借りなければ真、すなわち空を悟ることができないことをニーチェは知っていたのか、はたまた知らなかったのか。

ある一点を席巻したバンドに群がる聴衆の歓呼の熱狂を聴きながら僕は思った。
ここにあるのはまさにニーチェの言う「ニヒリズム」でなかったか。

1973年から74年にかけて、キング・クリムゾンには驚異的な力強さとイマジネーションとを持つものすごいベーシストがいた。当時彼の分野では最高の若きイギリス人のプレイヤーであったことは十分に納得の行くところである。彼はスピークイージーへ行くたびにまたしても有名なイギリスのグループ参加の話を持ちかけられていた。ドラマーはクラシック・ミュージシャン気質で、ジャズマンになりたいけれどもロック・グループにいるという男だった。彼は発散、実験、成長、そこいらを動き回ること、そして強くしかもしばしばものを叩く自由を与えてくれるグループはキング・クリムゾンだということを発見した。それで参加した。ブラッフォード/ウェットンが良いリズム・セクションであったかどうかはわからないが、一緒にプレイするのに彼らは素晴らしく、忙しく、エキサイティングで、感情豊かで、機敏で、創意に富んでいて、そしてすごかった。
(ロバート・フリップ)

ロバート・フリップの回想には、あの当時のメンバーに対して手放しの賞讃が多くある。確かに彼らはエキサイティングで、すごかった。半世紀近くの時間が経過しようとも発せられるエネルギーの熱度は決して衰えない。特に、ライヴにおけるキング・クリムゾンのパワーは筆舌に尽くし難い。

30年前、このボックス・セットを手にしたとき、僕は驚喜乱舞した。
待ちに待った、夢にまで見ていた、幻のライヴ音源に僕は一聴感激した。

インターネットはもちろんのこと、携帯電話すら未だ一般には普及していなかった時代。サブスクで手軽に音楽が聴ける時代が30年後に来ようとは想像もしていなかったあの頃は、お気に入りアーティストのお蔵入りになっていた(?)未発表音源がリリースされるだけで大変なニュースだった。

ジョン・ウェットンもまた、当時を振り返って次のように回想している。

よくクリムゾンのギグを体験した人々に出くわすことがある。アムステルダム、チューリッヒ、ニューヨーク、はたまたハンブルグなどなど。たくさんのショーをやったが、これまで私に不満を述べに来た者はいない。どのショーも甲乙つけがたかったが、それにしても20年経った今、最高のクリムゾンのショーを体験した人々に出会うのは素晴らしい。気迫に満ちた4人の若者たち—おうし座生まれの3人とふたご座生まれの1人—がハード・ミュージックを一心にプレイしたものだ。強くて速い、冒険的な試みの音楽だった。それを好む者もいれば、嫌う者もいた。まったく理解できない者もいた。しかしすべてが良い方向に行っていた時のパワーを否定するものはいないだろう。そして私もその中の1人として、何事にも変えがたい経験をしたのである。
(ジョン・ウェットン 1992年5月)

諸行無常。キング・クリムゾンといえど完全ではなかった。少なくとも「すべてが良い方向に向かっていた時」の演奏は人後に落ちることのない、最高のパフォーマンスが繰り広げられたのであろうことが、何よりその時の音源を聴けば明白だ。

King Crimson The Great Deceiver Live 1973-1974
・THINGS ARE NOT AS THEY SEEM…
Palace Theater
Providence, Rhode Island: June 30th. 1974.
・SLEIGHT OF HAND (OR NOW YOU DON’T SEE IT AGAIN) AND…
Walk on to Glasgow… Glasgow Apollo: October 23rd. 1973.
・…ACTS OF DECEPTION (THE MAGIC CIRCUS, OR WEASELS STOLE OUR FRUIT)
Pittsburgh. Pennsylvania Stanley Warner Theater: April 29th. 1974.
・…BUT NEITHER ARE THEY OTHERWISE
Tronto. Massey Hall: June 24th. 1974 / Zurich Volkshaus: November 15th. 1973.

Personnel
David Cross (violin, mellotron, electric piano)
Robert Fripp (guitar, mellotron, electric piano)
John Wetton (bass guitar, vocals)
Bill Bruford (drums, percussion)

ウェットンの言葉通り、熱い、ヘヴィなサウンドが高尚かつ精緻な楽曲から発せられる様に感極まる。できるだけ音量を上げ、身体で直接に音圧を感じてこそキング・クリムゾンのライヴを追体験できるのだ。
バンドが形成された頃のギグに比較して、烈火の如くの、火花散らすパフォーマンスにただただ舌を巻く。時代の空気をそのまま纏い、後にメンバーを変え、どんなに完璧に再現しようとも、この4人の、その時期におけるパフォーマンスを凌駕することは不可能だ。

新しい世界構想。—世界は存立している。世界は、なんら生成せず、なんら経過しないものである。ないしはむしろこう言いえよう。世界は生成し、世界は経過しはするが、しかし世界は、けっして生成しはじめたこともなければ、けっして経過しおわったこともない、—世界はこのいずれの場合にもおのれを保存すると・・・世界はおのれ自身で生きる、その糞尿がその栄養なのである。
原佑訳「ニーチェ全集13 権力への意志(下)」(ちくま学芸文庫)P538

永劫回帰を発見したニーチェの結論はこうだ。
世界は常に開かれ、また閉じられている。
それにしてもこれらの壮絶なパフォーマンスの裏側で、苦しむメンバーもいた。デヴィッド・クロスだ。

私のロック・ヴァイオリンのプレイは、フリップのギターに対抗するうちに着実に進歩していた。ただウェットン/ブラッフォードのリズム隊が、ギグを重ねるに連れ目立ってきて、全体がどんどんうるさくなっていった。
ショウの半分はエレクトロ・ヴォイスのモニターに耳を押しつけてフリップが何を弾いているのかを聴き分けるのに私は懸命だった。あとの半分は大音量で頭がガンガンになりながら自分の音を探していた。
最初から次第に私のテクニックは低下していった。ちゃんとしたバランスで自分の音も他の音も聴けないせいだ。とにかく音が大きすぎる。テンポをはずさなくてもピッチはずれっぱなし。私が何を言ってもたいがいは無視された。特にビルとジョンは、ロックやジャズ・ロック以外のことは聞く耳持たないという感じだった。

(デヴィッド・クロス 1992年7月17日)

悲しいけれど、それが現実だった。
※メンバーの言葉はPCCY-00393ライナーノーツより引用

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