僕は日常的に情報をほとんど追わない。
だから、「知らないこと」もたくさんある。
それに、興味の対象がエキセントリックで(自分で言うのもなんだが)、ある意味狭いので世間の常識とは少々ずれた、相容れないところもある。漱石ではないが、兎角に人の世は住みにくい。
何年か前にディーナ・ウゴルスカヤが亡くなっていたことを最近知った。
残念ながら実演は聴けていない。
もともと彼女の父親のアナトール・ウゴルスキの類稀なる凄演に興味を持ち、しばらく追っていたことが原点である。しかし、そのウゴルスキももはや来日予定の伝聞すら聞かれることもなく、まして世間の噂ではとんでもなく技量も衰えていて、聴くに堪えない演奏だという評もあるので20世紀後半に続々とリリースされたグラモフォンでの録音をじっくり聴き回すことで渇きを癒すのがベストなのだろうと、今は諦めている。
アナトールのベートーヴェンは確かに素晴らしい。「ディアベリ変奏曲」も作品111も人智を超えた、大袈裟だけれど神の域に到達しているような悟りの演奏だと僕には思えてならない。果たしてディーナがどこまで追随しているのか興味があって、いつぞや僕は彼女の音盤を手に取った。それはとても素晴らしかった。女性的な、まろやかで優美なベートーヴェン最後のソナタに僕は感激した。
その思いは今も変わらない。
しかし、彼女が亡くなった今となってはその真価を実演でもって確認できないという忸怩たる思いがある。ディーナに関しても残されたわずかな録音でもってのみ対峙することができないとは。
ベートーヴェン:
・ピアノ・ソナタ第29番変ロ長調作品106「ハンマークラヴィーア」
・ピアノ・ソナタ第32番ハ短調作品111
ディーナ・ウゴルスカヤ(ピアノ)(2011.11録音)
11年前、ミュンヘンでの録音。強いて言うならアナトールの陰に対してディーナの演奏は陽の表情を醸す。しかし、外面的にはそういう様子を魅せたとしても、実に内側は鬱屈した、暗澹たる気配が感じられる点が興味深い(あくまで個人的な、極めて感覚的なものだけれど)。白眉は第2楽章アリエッタの、特に後半の、透明な、天使が舞い降りるような純粋な音の連なりが、何だか今となっては彼女の薄命を暗示しているようで悲しくなる。
自然を創造した神に対するベートーヴェンの感謝の念は一入であった。リーツラーはベートーヴェンの自然愛について書いている。「田舎の自然の中に居るときほど、彼の創造的な想像力が、豊かに、自由に、働いたことはなかった。・・・自然に対する彼の情熱的な愛は、彼にあっては、多くの同時代者の場合のような感傷的なものではなくて、全く男性的創造的なものだった」。
~藤田俊之著「ベートーヴェンが読んだ本」(幻冬舎)P300
ベートーヴェンは花や雲や、身の回りに生きるすべてに対して慈愛をもって接したといわれる。楽聖といわれる所以もそういうところにあろう。
おそらくディーナ・ウゴルスカヤの精神も同じような志の麓にあったのではないかと思われる好演だとあらためて思う。実演を聴きたかった。
ウゴルスカヤに触れられているとは?!
父親の名前を聞くもひさしぶりです。一時期レコード芸術誌のDG欄広告で見ていたことは随分と過去になりつつある気がします。
ヘンデルの組曲演奏を買い集めていてAmazonやHMVにウゴルスカヤ盤が検出されたものでほかの演奏と共に考えず購入しました。
タッチといいテンポといい曲想にぴったりでキース・ジャレットまで手を出す必要も無いなと思わせる充実した満足得られる1枚と。
本人検索すると驚いたことに数年前に亡くなっている旨。ベートーヴェン、シューベルトとこれから少しずつ聴き進むため、残したわずかな遺産蒐集に岡村さん同様勤みたいと考えています。
>老究の散策クラシック限定篇様
コメントをありがとうございます。
何年か前にショップでこの音盤を見かけ、何か直感するものがあって手に取りました。
父アナトールとはまた違った印象の、それでいて深みと自在さを感じさせる演奏に思わず心が揺さぶられました。
ヘンデルの組曲は未聴なので聴きたいと思います。情報をありがとうございます。
それにしても亡くなっていたのを知ったときは衝撃が走りました。