
「キャスリーン・フェリアー追想」(1954)の中で、ブルーノ・ワルターは次の一文を寄せている。
それ以来マーラーの「大地の歌」を思うと、私はキャスリーンを目の前に見、彼女の声の比類なく美しい響きを聞かずにおれぬし、彼女の表情が厳かに変わるのを目の当たりにする。彼女と告別の交響曲—私にとって両者は常に相寄り一体をなすだろう。
~ロッテ・ワルター・リント編/土田修代訳「ブルーノ・ワルターの手紙」(白水社)P350
ワルターにとってフェリアーの歌唱は絶対のものだったに違いない。
もちろんフェリアーにとってもワルターは世界を広げてくれた大恩人だった。
録音においても特長ある低い声に僕は痺れる。
この哀感は一体何なのだろう?
わずか41歳で亡くなったフェリアーの歌唱は聴く者をいつも感化する。実演に触れ得ることができたならどれほどの感動を与えてくれたことか。揺るがぬ凛とした姿勢、そして芯のある野太い(?)かつ伸びのある安定の歌に言葉を失う。
悲しみのマタイ受難曲よ。
第9番レチタティーヴォ「あふれる涙」から、思い入れたっぷりの歌に凄味を覚える。続く第10番アリア「罪と後悔」に溢れる懺悔の念よ(フェリアーの歌唱には情に訴える、まるで自身が体験したであろうようなリアルさがある。過去世の再現なのかどうなのか)。
そして、鞭打たれるイエスを目の当たりにし為す術のない心境を吐露する第47番アリア「憐れみたまえ、わが神よ」からは、(冒頭の独奏ヴァイオリンの悲しみと同期するがごとく)文字通り苦悩の思いが実に透明感をもって歌われる様子が素晴らしい。
第48番コラール「たとえわれ汝より離れいずるとも」における、ゆったりとした合唱に涙し、また第60番レチタティーヴォから第61番アリア「わが頬の涙」でのフェリアーの絶唱に快哉を叫ぶ。
バッハは最もよき慰藉であり、最もよき師父である。悲しみにも、歓びにも、私は自分の心の反映をバッハの音楽に求める。200年を距てて、バッハの音楽は、我等の心に不断の光と歓びとそして慎みとを与えずにはおかない。
~あらえびす「クラシック名盤楽聖物語」(河出書房新社)P46
戦時中に書かれたあらえびすの評論からすでに70余年が経過するが、この論の趣旨は今でも通用するものだ。いかにバッハの音楽が普遍的なものであるかということだ。