かつて音楽家の身分というのは相当に低かった。
最晩年、ヴェネツィアを去り、ウィーンに客死したアントニオ・ヴィヴァルディも葬られたのは貧民墓地だという。
リック・デッカードはモーツァルトの歌劇「魔笛」をことのほか愛した。
オペラ劇場で「魔笛」のリハーサル中、彼は考える。
だが、現実の人生では、敵を苦もなく消滅させるような魔法の鈴なんてものはない—そうリックは思った。うまくいかないもんだ。そして、モーツァルトは〈魔笛〉を書いてまもなく—30代の若さで—腎臓病をわずらって死んだ。そして、墓標もない共同墓地に埋められたのだ。
ひょっとすると、モーツァルトは未来が存在しないこと、すでに短い人生を使い果たしてしまったことを、なにかの直感で知っていたんじゃないだろうか。おれにもそんな直感があるかもしれん—リックはリハーサルを見まもりながら、そう考えた。やがてこのリハーサルは終わり、やがて本公演も終わり、やがて歌手たちは死に、そして、やがてはこのオペラの楽譜の最後の一部も、うやむやのうちに滅びてしまう。最後には“モーツァルト”の名も忘れられ、灰が勝利を占める。もし、この惑星でだめなら、ほかの惑星でそれは完成する。あとしばらくのあいだは、人間たちもそれを避けられるだろう。アンディーどもがおれを避けて、かぎられた余命を長びかせるように。
~フィリップ・K・ディック/浅倉久志訳「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」(ハヤカワ文庫)P127
諸行無常。
モーツァルトに負けず劣らず、天才ヴィヴァルディの生き様も、そしてその死も不可思議といえばそうだ。少なくとも彼は63歳まで生きることはできたが、聖職者たる彼は万物の成り行きがわかっていて、モーツァルトと同じく数多の協奏曲を生み出したのではなかったか。
聖職から俗世間へ、アントニオ・ヴィヴァルディの志は信仰を軸に、音楽の喜びを世界に広めることにあったのだと思われる。彼には喘息の持病があったそうだ。おそらく当時にあっては大変な病気であったことだろう。自身の不遇をものともせず、むしろその境遇を活かし、数多の協奏曲を創出し、後世の規範になったことは素晴らしい。
彼の協奏曲は、独奏楽器が主張し過ぎず、伴奏管弦楽と見事な調和とバランスを保ちながら進行する。緩急の妙、旋律の豊かさ、愉悦あれば哀惜もあるという情感の優れた表現に心が動く。
数年前に初めて耳にしたときの印象とは異なる。
間違いなくヴィヴァルディの音楽なのだけれど、(以前は聴き逃していたであろう)光と翳の対照が実にはっきりしていることが今は聴き取れる。僕の器が変わったのかどうなのか。
どちらかというと短調作品にシンパシーを覚える僕がいる。