
亡くなるその瞬間、ルキノ・ヴィスコンティは愛聴するブラームスを聴いていたのだという。
幸せな最期だったのだろうと思う。
『ルードウィヒ』の撮影が終わって、編集に入る直前72年7月27日の夜ローマのホテル・エデンで、彼は心臓血栓の発作で倒れてしまった。半年にわたる闘病生活と苦心の末、映画の編集は終わり、翌年の1月28日にボンで初公開された。製作会社との契約による上映時間を守るために非情な犠牲を強いられた。
チューリッヒでの入院生活の後、長年住みなれたローマのサラリア街の邸を売り、フレミング街のマンションに移り住んだのは、不自由な身体には小さな家のほうがよいという理由だった。
ここで彼はその最後の情熱を傾けて、2本の映画、『家族の肖像』と『イノセント』を完成し、後者のダビング最中の1976年3月17日に自分の部屋で死んだ。
~ブック・シネマテーク4「ヴィスコンティ集成 退廃の美しさに彩られた孤独の肖像」(フィルムアート社)P23-24
仕事を中心とした過労、無理が祟ったのか、それとも生涯独身を貫いたゆえの食生活に問題があったのか、69歳での死は、50年近く前のこととはいえ、早過ぎた死だった。
ヴィスコンティはブラームスの交響曲第2番をくりかえし聞いていた。やがて、妹のウベルタのほうをみて言った。
「もう充分だ・・・」
そしてヴィスコンティは、頭をうしろに向けた。ほどなく死への道を歩みはじめた。
~同上書P24
音楽のことなのか、それとも人生そのもののことなのか、真意は不明だが、意味深な言葉だと思う。
今なお語り継がれる、2009都民芸術フェスティバルでの伝説のコンサートの記録(東京芸術劇場大ホール)。なお、山崎伸子をソリストに迎えたハイドンのチェロ協奏曲ニ長調は未収録である。
神をも畏れぬ、神への礼賛(?)、調性をD majorに揃えた格好のプログラムは、ボッセの独壇場。
87歳の老指揮者が創造する音楽の何と溌溂とした生命力に溢れるものか。楽章を追う毎に音楽はいよいよ喜びに満ちる。第1楽章アレグロ・ノン・トロッポから音楽の勢いは並大抵でなく、推進力をもって紡がれる様に驚くばかり。特に、終楽章アレグロ・コン・スピーリトの爆発力に感無量。
あるいは、コンサートの劈頭を飾るJ.C.バッハ(アンナ・マグダレーナとの間に生まれたバッハの末子)のシンフォニアは、さすがにモーツァルトにも影響を与えた作曲家だけあり、緩急緩という常套の形式と踏襲しながらいかにも典雅でありながら内から滲み出る哀感を表すものだが、ボッセの自然体の解釈に、新日本フィルがこれまた懸命に応え、演奏する様子が容易に想像でき心地良い。第2楽章アンダンテがことのほか美しく、また儚い。