
彼が望む通りになるまでリハーサルは続けられた。
メンバーは、もはや「明日練習しても良いですか?」と尋ねることは不可能だった。
「だめだ、今すぐだ」と彼はいつも即答した。
(ジョン・トランスキー、2013年)
劇的な表現のうちに垣間見える生命力の発露。
どんな作品を指揮しようとも、彼の音楽には(少なくとも録音においては)情熱と時に悲哀と、そんな人間らしい情緒が感じられる。それもこれも完璧さを追求した、緻密で執拗な(?)リハーサルのお蔭だろうか。
コンスタンティン・シルヴェストリは、1913年5月21日にブカレストに生まれ、1969年2月23日にロンドンの病院で没した。享年55。早過ぎる死だ。
1945年、ブカレスト・フィルハーモニー管弦楽団の常任指揮者に任命され、2年後には音楽監督に就任。彼の、時にエキセントリックな解釈は賛否両論を巻き起こしたという。
しかしながら、反体制の立場を取ったことと、独裁政権に不興を買う西側の作品や、新しい難解な音楽をプログラムにしばしば取り上げたことから1953年、突然解任される。一旦、ブカレストの国立オペラ座と放送交響楽団の芸術監督に就任し、1958年11月初旬に西側に亡命するまでその職に留まった(1957年にはロンドン・フィルハーモニーを指揮、パリではフランス国立管弦楽団を指揮し、西側デビューを果たす)。
そして、1961年、英国はボーンマスに移り、ボーンマス交響楽団の音楽監督に就任。
(オーケストラの第1ヴァイオリン奏者、ブライアン・ジョンストンは当時のことを次のように回想している)
シルヴェストリはしばしば絵画的で情景的な提言をしてくれました。リムスキー=コルサコフの『シェヘラザード』を録音した時、彼がこう言ったことを私は覚えています。「シンドバッドの船を描いた第1楽章主弦旋律は、うねる波に乗っているような感じになり、フレーズの最後のピチカートは大きな波しぶきのようになります」
要は、音楽の表現的意味とその雰囲気を喚起することが、シルヴェストリの最大の関心事だったのである。それにはより多くの準備が必要だった。ロンドンやパリでは期待できなかった自由裁量と、より多くのリハーサル時間を与えられる機会がボーンマスにはあったから彼は赴任を受け入れたのである。
そしてまたブライアン・ジョンストンは次のようにも言う。
「彼は自分の思い通りに演奏できる独自のオーケストラを必要としていました。1回のコンサートでは5回のリハーサルが要求されました。リハーサルは実に探究的で緊張感に満ちるものだったので、もっと時間があればより磨きのかかった音楽になったのではないかとさえ思います」
彼の緻密なリハーサルにより、オーケストラの音色と響きは格段の変貌を遂げ、一層深みと表現力を増し、素晴らしい演奏になったのだ。
(ジョン・トランスキー、2013年)。
東西冷戦の時代、東側諸国の音楽家には厳しい訓練が課されたという。
(それゆえに奏者の力量は西側のそれをはるかに超えるものだった)
ソ連のエフゲニー・ムラヴィンスキー同様、コンスタンティン・シルヴェストリにも訓練こそが、事前の時間をかけた準備こそが良い音楽を、聴衆に感動を与えられる音楽を生み出せるのだという信念があったのかもしれない。
ニ短調交響曲は渋い名演奏。
ウィーンは楽友協会大ホールでの録音。
第1楽章アレグロ・マエストーソ(11:23)
(ボヘミアの森厳なる哲学的音響)
第2楽章ポコ・アダージョ(11:08)
(大自然を謳歌する人間的な心の安寧)
第3楽章スケルツォ(ヴィヴァーチェ)(7:28)
(そして、野人的舞踊と、中間部の静かで明朗な歌)
終楽章アレグロ(8:55)
(民族闘争を超え、独立的雄渾さをとり込もうとする強い意志が感じられる音楽だ)
どの楽章も旋律的で美しいが、この作品はローカル色からインターナショナル色へと変貌を遂げる、ドヴォルザークの分岐点となる傑作だ(純独墺巨匠風の交響曲!)。スケルツォ楽章などはまるでアントン・ブルックナーの交響曲をなぞるような印象で、面白い(ブルックナーは同じ頃交響曲第8番ハ短調を作曲中だった)。
(実際には、直近に初演されたブラームスの交響曲第3番ヘ長調作品90に触発されたという)

ところで、このブラームスのハンガリー舞曲第5番テンポといい、リズムといい、理想的な演奏。ベーラ・ケーレルのチャールダーシュが原曲だが、編曲当時ブラームスは民謡だと勘違いしていたらしい)


