テュルク 浦野 シュミットヒューゼン 米良 櫻田 コーイ 鈴木雅明指揮バッハ・コレギウム・ジャパン J.S.バッハ ヨハネ受難曲(1998.4録音)

礒山雅さんの「ヨハネ受難曲」の第2章「『ヨハネ福音書』におけるイエス」には次のようにある。

「初めに言(ロゴス)があった」という冒頭の一文は、「天地創造の初めにあったものが何か」を説明するもののように見えるが、そうではない。その文意は、「言は神と共にあった。言は神であった」という3つの文章を得て、初めて完結する。すなわち、言は神と一体となって、ともに原初から存在していた、の意である。
言は、秩序・理知・摂理という意味合いを含みながらも、その向こうに、神の子キリストを指し示している。すなわちこの開始は、世界の摂理を説明するかに見えて、キリストの先在を主張する布石となっているのである。

礒山雅「ヨハネ受難曲」(筑摩書房)P29-30

あくまでキリスト教の書としてとらえれば確かにそのように捉えられるのは当然だ。しかしながら、イエスも仏陀も同じ真理を、摂理を得た同志だとするならば、宗教の枠を超えているものであり、先在するものがイエスその人ではなく、真理そのものであると捉える方が正しいのではなかろうか。「ロゴス」は一般的に「言葉」と訳されるが、実際には「真理」や「摂理」という意味合いがここでは正しかろう、あるいは重要だろうと思う。
つまり、上記の「言」を「真理」と読み替えたとき、すべてが理解でき、腑に落ちるのである。
神は真理そのものであり、「ヨハネ福音書」は、世界の摂理そのものの表現だといえる。

バッハが聖書を、福音書をどのように理解していたか僕は勉強不足で知らない。
ただし、「ヨハネ福音書」をベースに創出された「受難曲」はいくつもの版があるとはいえ、実に刺激的な、慈しみ溢れる名曲である。何年か前、ミシェル・コルボの実演を聴き、僕は大層感激した。受難曲は生演奏で聴くに限ると思う。

真理は神であり、また愛だ。愛はすなわち神そのものであり、また真理だ。
今はまさに愛、すなわち慈しみが最優先されるべき時代なんだとあらためて思う。

復活祭を前に「ヨハネ受難曲」。そしてまた今日は「ヨハネ受難曲」初演から299年目の日にあたる。

・ヨハン・セバスティアン・バッハ:ヨハネ受難曲BWV245(1749年版)
ゲルト・テュルク(テノール)
浦野智行(バス)
イングリット・シュミットヒューゼン(ソプラノ)
米良美一(カウンターテノール)
櫻田亮(テノール)
ペーター・コーイ(バス)
鈴木雅明指揮バッハ・コレギウム・ジャパン(1998.4録音)

「福音書」第18章~第19章のイエスの受難を題材にした「受難曲」の大いなる感動。
音楽を聴き、具に分析される文献を読み、バッハの小宇宙を旅する喜びに満ちる体験は、この上なく尊い。

バッハの《ヨハネ受難曲》は、いかにも告別を思わせる合唱曲の後に、四声コラールを置いて終曲とする。《マタイ受難曲》に親しんでから接すると、わざわざ付け加えなくても、と思える重ねである。しかもその書法は簡潔で、取り立てての工夫は見られない。
しかしこのコラールが、まことにすばらしいのである。この終結コラールあってこその《ヨハネ受難曲》である、という述懐を、筆者は何人もの人から聞いた。

~同上書P408

終曲コラールの美しさについては礒山さんの意見に賛成だ。もちろんその前の第39曲合唱は荘厳でありながら哀切に溢れ、極めて素晴らしい。
BCJの演奏も清澄で、言葉に言い表し難い透明な、真空の境地にあるような響きだ。

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