ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル ショスタコーヴィチ 交響曲第7番ハ長調作品60「レニングラード」(1953.1録音)

1月初めにこのオーケストラは数日にわたり、レニングラード・アコード・スタジオの音響技師ダヴィド・ガクリンの担当で、ショスタコーヴィチの交響曲第7番のスタジオ録音を行なった。これは心身の疲れる体験で、いつものことだが、磁気テープ・リールの入った金属ケースに見入って、ムラヴィンスキーは「ブリキ缶に音楽を詰める」ことについて考え直していた。その月末までは、エヴゲニー・ムラヴィンスキーは体力を快復するために、レニングラード近郊のメドニチニーにある保養所で過ごしていた。

【ムラヴィンスキーの日記】
ショスタコーヴィチの第7番。この録音に対する思いもその必要性もまったく失くしてしまった—これには啓発されるものがない。いつでもどんな時でも、もっと没頭しなければならない!

ムラヴィンスキーが再び《レニングラード》に戻ることはほとんどなく、ザンデルリンクやヤンソンスの演奏にまかせ、この年の後半には他の作品を復活させようとしていた。「《ニュルンベルクのマイスタージンガー》のテンポと様式について考察。ショスタコーヴィチの交響曲第6番を一頁ずつさらった。(偉大な作品だ!)」。
グレゴール・タシー著/天羽健三訳「ムラヴィンスキー高貴なる指揮者」(アルファベータ)P194-195

ムラヴィンスキーは後年どうしてショスタコーヴィチの交響曲第7番「レニングラード」を封印してしまったのだろう?

唯一残されているスタジオ録音は音質は決して良いとは言えないまでも、ストレートな、作曲者も認める名演奏で、本当ならその後も幾度もコンサートなどでとり上げたはずだろうに。

この録音は新しいフォーマットであるLPレコードとして発売されたもののひとつで、その完成品を聴くことができたのは数週間後だった。ムラヴィンスキーがこの方式に気乗りしなかった一方で、作曲家はトスカニーニの戦時中の録音に満足せず、ムラヴィンスキーのオーケストラが《レニングラード》交響曲を録音するのを忍耐強く待っていた。

Y.ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル演奏の私の交響曲第7番を聴いたばかりだ。素晴らしい演奏だ。このレコードについては次のように言いたい。私はこのように優れたレコードはこれまで聴いたことがない。Ppからffまでのダイナミックな緊張感とともにオーケストラ全体の息を吞むようなサウンド—トッティが聴こえてくる。セクション全体とソロ楽器の両方にオーケストラのサウンドを感知できることは賞賛すべきである。音響技師ダヴィド・ガクリンはまたもや立派な技量と尊敬すべき音楽的洗練さを示した。(ショスタコーヴィチ)
~同上書P195

何とこれほどの賞賛と期待の中、ムラヴィンスキーがほぼ封印したであろう理由が、納得できない録音フォーマットにあったのだとは!(それは晩年のフルトヴェングラーが「トリスタン」のプレイバックを聴いてようやくLPフォーマットの素晴らしさに気づいたこととは真逆の結果だ。それほど西側と東側との録音技術の格差が大きかったことを表わす事例だろうと思う)

・ショスタコーヴィチ:交響曲第7番ハ長調作品60「レニングラード」
エフゲニー・ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団(1953.1.1, 2, 6 &9録音)

演奏は作曲者の感嘆を招くくらい素晴らしいものだ。
(願わくば、後年のより鋭利な感性によって成されたライヴ録音を聴いてみたかった)
圧倒的なるは後半2つの楽章だろうか。「祖国の大地」と題される第3楽章アダージョは、冒頭から慟哭の表現であり、ここだけをもってしてもムラヴィンスキーのただならぬショスタコーヴィチ作品への崇敬の念の刻印が感じ取れる。そして、「勝利」たる終楽章アレグロ・ノン・トロッポの(ハ短調からハ長調への展開はこの楽章のみでベートーヴェンのハ短調交響曲の衣鉢を継ぐ)あまりに厳しい音楽に、そしてただならぬ集中力に、僕たちは驚異的なエネルギーを要求されるのである(指揮者の心身の疲労が納得できるというもの)。

ムラヴィンスキーのショスタコーヴィチ「レニングラード」交響曲を聴いて思ふ ムラヴィンスキーのショスタコーヴィチ「レニングラード」交響曲を聴いて思ふ

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