シューベルトの3つのピアノ小品

シューベルトの数多あるピアノ曲の中で目下の愛聴曲は、最晩年の「3つのピアノ小品」D946だ。おそらくマイナーな作品だと思うが、小品とは名ばかりで、シューベルト特有の「悠久な」というか「永遠の」というか・・・、いつまでも「歌」の続く、しかも性格の異なる3曲が時に微笑みかけ、そしてときに涙を見せ、どうにも僕の心を釘付けにする。第1曲アレグロ・アッサイは10分ほど、第2曲アレグレットも同じく、そして第3曲アレグロが6分ほど、合計で30分近く要する大曲。物理的にも結構な長さではあるが、どういうわけかとても短く感じられる。どうしてだろう?通常のシューベルトによくある「感情の垂れ流し」でないのかも・・・、不思議なものだ・・・そんなことを思い、この曲集を繰り返し聴く。
D946は作曲者の生前には発表されなかった。ブラームスによって見出され、1868年になってようやく出版されたという代物である。この「ブラームスによって」というところがミソ。ヨハネスの同じく晩年の小品集にも通じる何とも孤独でありながら純白の何にも汚されることのない世界観。ブラームスはシューベルトの影響も明らかに受けているのでは・・・。モーツァルトからベートーヴェン、シューベルトに、そしてシューマンからブラームスへと引き継がれる独墺系音楽の歴史の流れにおいてシューベルトの果たした役割って実に大きいのかも・・・。今更ながらそんなことを考えた。

シューベルト:
・ピアノ・ソナタ第21番変ロ長調D960
・3つのピアノ小品D946
内田光子(ピアノ)(1997.5録音)

シューベルト生誕200年を記念してウィーンでレコーディングされた内田のこのCDはリリース当初から至るところで絶賛を受ける名盤だが、僕もこの音盤に初めて触れた時、最後のソナタの囁きかけるような最初の主題、何もないところから湧き出すような旋律の美しさに卒倒するほど感動を覚えた。病に冒され、精神的にも参ってしまっている作曲家の心身がそのまま「ここ」に反映される。何と病的な・・・。息も絶え絶えに最後の力を振り絞って何とか伝えようとするシューベルトの魂。
ところが、久しぶりに聴いてみて感じること。
長い・・・、あまりに・・・。そう、本人にはもちろん意識はないが、残された少ない時間の中でシューベルトには伝えたいことがいっぱいあり過ぎたのだ。とても間に合わない。だから1曲をそう簡単に終わらせることができない・・・。ゆえに、これこそがシューベルトの「ありのまま」であり「等身大」なのである。特に30分超を要する第1楽章と第2楽章!どうにも残り2つの楽章とのバランスが悪すぎる気がしないでもないが、最初の2つで伝え切った後、もはや彼には「言うべきこと」が見つからなかったのかも・・・。

さて、一方の「3つのピアノ小品」。アレグレットの寂莫とした愁いに満ちた主題は、それが出てくるたびに胸がかきむしられるかのような想いになる。中間部の急きたてられるような爆発は孤独な激白だ。そしてまた美しいテーマが還ってくるときには、どうにも懐かしさが付加され、名残惜しくあっという間に消えてゆく。そしてそのままアレグロへと・・・。
ふと思った。
シューベルトの音楽はエンドレスのオルゴールみたい。
聴いていると眠りに誘われ、でもそれが心地良くて耳に邪魔にならず。
特にピアノ曲はそう。


1 COMMENT

岡本浩和の音楽日記「アレグロ・コン・ブリオ」

[…] フランツ・シューベルトの「3つのピアノ小品D946」はやっぱり美しい。 こんなにも切なく、これほどに愛らしく、時間、すなわち生命が有限であることを身近に感じさせてくれる音楽はそうそうない。 心に直接訴えかける節は、まさに死を目前にした若きシューベルトの「白鳥の歌」であり、ここには希望と不安が錯綜し、そして愛と死とがひとつとなり、作曲者の魂の叫びが刻印される。 青白い響き。内田光子の弾くD946は大変に素晴らしい。また、マウリツィオ・ポリーニのそれは、死をまったく意識しないポジティブな音楽だ。あるいは、パウル・バドゥラ=スコダの、老練の枯れた音調の味わい深い歌。 […]

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