チャイコフスキーのアンダンテ・カンタービレを聴いて思わず涙したというレフ・トルストイ。1889年の「芸術について」でトルストイは次のように書く。
芸術家が語っていることがまったく新しく、かつ重要であるためには、芸術家が道徳的に啓蒙された人間であり、それゆえもっぱら利己的な生活を送っているということがなく、人類の全体的な生活への参加者であることが必要である。
芸術家の語ることがまったく素晴らしく表現されるためには、歩いているときに人が力学の規則についてはまず考えないのと同じように、仕事をしながら、その技能の規則についてはまず考えないという程度に芸術家が自分の技能をわがものとしていることが必要である。
そうなるためには、ちょうど歩いている人が自分の歩きぶりについて考え、それに見とれてはならないように、芸術家は決して自分の仕事を眺め、それに見とれてはならないし、技量を目的にしてはならないのである。
~八島雅彦「人と思想 トルストイ」(清水書院)P150
あくまで内発的動機によって、同時に利他の精神で創造行為に及んでいることが芸術家の条件だとトルストイは言う。果たしてトルストイ自身は、己を戒めつつも、言行一致で人類の全体的な生活への参加者であろうとした。残念ながらチャイコフスキーはそこまでいかないのではないか。音楽家の中で、もし仮にそういう創造者があるとするなら、それは楽聖ベートーヴェンしかいないように僕は思う。
さらに完全な芸術作品の条件として、トルストイは次の3つを挙げた。
・内容の有意義である点ですぐれている作品
・形の美しさの点ですぐれている作品
・心のこもっていることと誠実さの点ですぐれている作品
~同上書P151
こと弦楽四重奏と分野に関して言うなら、バルトーク作品も、あるいはショスタコーヴィチの作品も当てはまるだろう。しかし、彼らは20世紀に活躍した天才たちだ。
ブダペスト弦楽四重奏団の2度目の全集から「ラズモフスキー第1番」。
第1楽章アレグロの、均整のとれた、理知的なアプローチが素晴らしい。ただ、個人的には抒情的な第3楽章アダージョ・モルト・エ・メストから確信的な終楽章アレグロにかけての移ろいの妙が白眉であるように思う。