ブルーノ・ワルターのモーツァルト。
歌劇に触発された若き日の思い出を知るにつけ、巨匠のモーツァルトへの愛着が、そして慈悲が僕たちに与える影響の大きさを思う。
ミュンヘンでの仕事によって私が獲得した最も強力な芸術上の財産は、モーツァルトに対する自分の理解が深まったということであった。私はかなり長い時間をかけて、やっとあの《18世紀》の、ないしは《ロココ》の、《微笑》の音楽家を、要するにウィーンにあるティルグナーの記念像の陽気なモーツァルトを、すっかり決定的に放棄し—《かわいた古典主義者》という考えにつられたことは、一度もなかったが—そしてやっと見かけは遊戯的な優雅の背後に、仮借ない真摯と、鋭い性格描写と、戯曲家としての豊かな造形力とを発見し—ついにモーツァルトを、オペラのシェイクスピアと認めるようになったのである。
~内垣啓一・渡辺健訳「主題と変奏―ブルーノ・ワルター回想録」(白水社)P292
「モーツァルト再発見」とでもいうのか、モーツァルトの真の姿を認識したワルターのモーツァルトはそれ以来一層普遍的なものとして聴衆に機能し始めたのではないだろうか。
同時に私は、モーツァルトの作品によってわれわれに与えられている、二度とない創造の軌跡をも理解した。すなわち彼にあっては、高貴なものと低俗なもの、善良なものと邪悪なもの、賢明なものと愚劣なものなどのすべてが、戯曲的に真実であり、しかもこれらすべての真実が美になっている、ということであった。
~同上書P292
陰陽を超えたところにモーツァルトのすごさがあることを見抜いたブルーノ・ワルターの慧眼。彼の残したモーツァルト作品は、スタジオのものであれ、実況録音であれ、永遠不滅である。
濃厚なロマンティシズム薫るト短調交響曲の、どこか頽廃的な雰囲気を残すウィーン・フィルの官能の表現にワルターの棒と同期したモーツァルトの真価を思う。
もはや言葉にするまでもない「プラハ」交響曲と第40番ト短調は、陰の前者と陽の後者という印象を思わせ、ワルターの言う「相対を超えた」真理としてもモーツァルトの真意が見事に体現されているようだ。
ちなみに、少年時代のワルターのモーツァルトの印象は次のようだった。
いま述べたことの意味を拡大して《シラー流に》言うならば、青少年は《崇高》を好むものであり、芸術における軽快さを含むカテゴリーとしての《美》は、もっと成熟した感覚にはじめて理解できるものなのである。そんなわけで、ベートーヴェンは私の神であったが、モーツァルトはただきれいだと思うだけであり、シューベルトの浄福なメロディーよりも、シューマンの激烈なロマン性のほうが私に親しく語りかけた。
~同上書P48
※過去記事(2011年9月30日)
※過去記事(2016年7月1日)
※過去記事(2020年8月11日)(録音データが異なるが、こちらの演奏は1956年6月24日が正しいようだ)