コンサートにおいて、かつて指慣らし程度に考えられていたドメニコ・スカルラッティのソナタは、ラルフ・カークパトリックらの尽力により、一つの個性として、重要な「役回り」を演じるようになった。550曲以上もの性格の異なるソナタを生み出したドメニコ・スカルラッティの天才を一言でとらえるのは難しい。
どのような作曲家といえども、極めて著名である場合を除き、ひとりの芸術家として、その表現のあらゆる側面にわたって自己を開示する機会を与えられることはまずない。その代り、イタリア歌劇に出てくる擬人化された伝統的な性格の類型よろしく、18世紀のいろいろな作曲家がずらりと公衆の前に並べられる。バッハは仏頂面をし、モーツァルトは一服のフリル付きレースのロココ趣味を供し、それは時々クープランに取って代わられる。パパ・ハイドンは無邪気で善良なユーモア以上の感性を示さず、何とまあ、スカルラッティに至っては大抵は道化役である。陽気な道化役というスカルラッティの役柄は確立してあまりに久しいので、彼が生前にスペイン宮廷で同じ役を強いられなかったかどうか、また彼のより表現豊かな作品が秘密裏に作られて、アレグロ、アンダンテ、プレストといった無害なラベルの下に隠されていなかったかどうか、などと勘ぐりたくなるほどである。
~ラルフ・カークパトリック著/原田宏司監訳・門野良典訳「ドメニコ・スカルラッティ」(音楽之友社)P293-294
カークパトリックの揶揄は公衆への密かな批判とも受け取れるが、実際ドメニコ・スカルラッティに特別な個性を与えたのはおそらくホロヴィッツであり、またチェンバロの分野において彼を特別な存在として確立したのはスコット・ロスその人だったのだと思う。
猛暑に夭折のスコット・ロスのスカルラッティ。
全曲セットの33枚目(ようやく10枚目、まだまだ先は長い)は、カークパトリックがまとめた最後のソナタ群を収録する。
古の、遠くスペイン王室の王女マリア・バルバラのために書き下ろした、雅な気の香る音楽は、単なる陽気な道化を超え、そこには哀愁やら楽天やら、様々な感情が交錯する。何という戦慄!
それはイベリア半島を灼きつくす真夏の目くらむ太陽の下の旅であった。草一つない灰褐色の大地の起伏、手の染まりそうな青空、そして列車の後部に立つと、黒い鉄路がどこまでもまっすぐ走り、いま離れたばかりの町が、小さな塊りになって、地の起伏の波のむこうに消えてゆく。列車がとまると、あたりは四、五軒の家のほか日かげさえなく、本当の村落は、はるか大地が斜めに下ってゆく野のまん中に、小さく、褐色の屋根の集まりになって見えていた。そうしたあげく、突然、アビラの町が、私の眼の前に、あらわれたのだった。
(III スペインのかげり~「異国から」)
~「辻邦生全集2」(新潮社)P137
ロスのスカルラッティは、僕に高雅でソフィスティケートされた辻の文章を喚起する。
いくら王室に仕えていたとはいえ、アビラという町は確かにドメニコ・スカルラッティに無関係だろう。と思いつつ、アビラはトマス・ルイス・デ・ビクトリアの出生地だというのだからあながち遠いインスピレーションでもないのかも(否、遠いか??)。
1757年7月23日、ドメニコ・スカルラッティはスペイン、マドリードで没した。
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