ベルガー ピッツィンガー ロスヴェンゲ ヴァッケ フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィル ベートーヴェン 交響曲第9番「合唱」(1942.4.19Live)

日進月歩の技術革新。
音楽を愛好する者にとって、今やサブスクで様々な音源が容易に手に入ることはもちろん、Youtubeにおいて欲しい音源が無料で、気軽に堪能できることは、何物にも代え難い感謝だ。
その昔、動くフルトヴェングラー観たさに、京都は丸太町の勤労会館まで出掛け、「フルトヴェングラーと巨匠たち」を手に汗握り鑑賞し、心から感激したことを思い出す(その映像も今では手軽に観ることが可能であり、隔世の感あり)。

1942年4月19日、アドルフ・ヒトラー生誕前夜祭でのフルトヴェングラーの第9。
ヨーゼフ・ゲッベルスによって宣伝に使用するため終楽章最後の部分は映像で残された(演奏は同年3月のものらしい)。ハーケンクロイツを前にし、客席にナチス幹部が揃う、その壮絶で異様なパフォーマンスは、残された幾種ものフルトヴェングラーの第9を凌ぐものだ。そういう現実が実際にあったことが実に感慨深い。

フルトヴェングラーはそれまで9年間にわたってナチスの公式行事で演奏することを何とか巧みに避けていた。しかし1942年になると、ゲッベルスは今度こそ党の公式行事にフルトヴェングラーを初出演させようと堅く決意した。フルトヴェングラーとしても、誕生日の前夜、恒例の演奏会で指揮するようゲッベルスから要請されることは十分予想していた。そこで当日は自分がベルリンにいないよう、そして戻ることができないよう工作した。フルトヴェングラーはすでに「病気」という理由で公演を数多くキャンセルした上に、ヒトラーの誕生日の1週間前に、ウィーン・フィルハーモニーを指揮するためにウィーンにいた。ウィーン・フィルハーモニーの名ばかりの責任者とはいえ、そのウィーン大管区指導者の許可がなければフルトヴェングラーはウィーンを離れることができず、ましてやオーストリアを離れることは不可能だった。大管区指導者はビュルケルの後継者バルドゥア・フォン・シーラハだった。シーラハは前任者ビュルケルがそうだったように、ゲッベルスを嫌っていたので、ウィーンを離れる許可をフルトヴェングラーに与えないことに即座に同意した。
ところがウィーンでベートーヴェンの第九をリハーサルしている最中に、ゲッベルスが電話をかけてきた。彼はフォン・シーラハに譲歩するよう脅迫した。いよいよフルトヴェングラーには誕生日の式典演奏会で指揮する以外に、選択の余地がなくなった。演奏曲目は、バッハの組曲第3番のアリアとベートーヴェンの第九の予定だった。フルトヴェングラーはわずか数週間前(3月21日~24日)にこの作品を指揮して、ベルリンで好評を博していたので、総統はとくにこれの演奏を望んだ。このような状況では、フルトヴェングラーはリハーサルの時間が不十分であると言い訳することもできず、結局ベルリンに戻って、何人かのソリストやベルリン・フィルハーモニーと共に急遽リハーサルをおこなうことになった。

サム・H・白川著/藤岡啓介・加藤功泰・斎藤静代訳「フルトヴェングラー悪魔の楽匠・下」(アルファベータ)P55-56

フルトヴェングラーは明らかに反ナチだったが、国家を思う気持ちと芸術に対する忠誠と、そういうものが邪魔をして国に留まったことが後の悲劇を招くことになった。この演奏も映像を観る限り本意でないことが薄々察知でき、興味深い。しかし、演奏そのものは壮絶なもので、生々しく、怒りに任せたような熱さに包まれている。

・ベートーヴェン:交響曲第9番ニ短調作品125「合唱」
エルナ・ベルガー(ソプラノ)
ゲルトルーデ・ピッツィンガー(コントラルト)
ヘルゲ・ロスヴェンゲ(テノール)
ルドルフ・ヴァッケ(バス)
ブルーノ・キッテル合唱団(ブルーノ・キッテル合唱指揮)
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(1942.4.19Live)

フルトヴェングラーはわずか数週間前に同曲を振っており、録音も残され、最高の名演奏を聴かせてくれるが、音楽構造の根本は当然ながらそうは違わない。しかし、祝祭性(?)という観点、そして、フルトヴェングラーの複雑な思いという視点から考えると、多少の戸惑いを見せるのかと思いきや、ここに刻まれるのはベートーヴェンの音楽に没頭するフルトヴェングラーの姿そのものであることが興味深い。音楽を前にすれば、彼にとって政治や経済や、社会情勢などまったく無関係なのであったのだろう。
第1楽章アレグロ・マ・ノン・トロッポ,ウン・ポコ・マエストーソから強烈な音響と、息も詰まるほどの切迫感に言葉を失うほど。灼熱の第2楽章スケルツォを経て、崇高なる第3楽章アダージョ・モルト・エ・カンタービレの哀愁と神への切実なる信に心が動く(それに終楽章冒頭の物々しい管弦楽提示がすごい)。

後にフルトヴェングラーは自身のみの振り方を後悔しつつ、どうしようもなかったとブルーノ・ワルターに手紙を書いている。

ドイツ人、とくにナチス・ドイツと関係のあったドイツ人に対するユダヤ人の感情は、まったく無理のないことだと思います。しかし、私たち本国に踏みとどまったドイツ人のように、自国民から恐るべきやり方で抑圧され、脅迫され、あげくの果てに—多少とも合法的に—弾劾の対照とされようとしているのは、もっとずっと恐ろしいことではないでしょうか? ドイツに残って、そこで起こったいっさいの事件に対して、海外にいたドイツ人と少なくとも同じだけの嫌悪を感じていた人々の立場に、どうしてだれひとり身を置いてみようとしないのでしょう? そして彼らのためにドイツに踏みとどまった人々がいたわけですが、これらの人々はそれにすら値しなかったというのでしょうか? 彼らは、いったい真のドイツ人ではなかったというのでしょうか?
(1949年1月22日付、ブルーノ・ワルター宛)
フランク・ティース編/仙北谷晃一訳「フルトヴェングラーの手紙」(白水社)P224

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