リヒテル晩年のバッハとモーツァルト。
協奏曲の場合はもちろんそんなことはないのだろうが、リサイタルのときの、会場の照明を極限まで落とし、かつ譜面を見ながら滾々とピアノに向かう姿に、僕は最初吃驚した。ある時期のポゴレリッチもまさにそういうスタイルでリサイタルを開いていたことを思い出す。
ピアニストというのは、まして世界に名の知れたピアニストは不思議な存在だ。
楽譜を手掛りに、自らの感性と技術で音楽を見事に再生する様子に、そしてそれによって聴衆に多大な感動を与える様子に、彼らは人間という枠を超えた、巨大で深遠な精神の塊なのではないかと僕はずっと思っていた。しかし、どんな天才ピアニストもそうだが、日常は奇人変人ともいわんばかりの癖(癖)を持っていて、(それこそ聖俗のバランスだといわんばかりに)どこかおかしい。
パドヴァはテアトロ・レジオでのライヴ録音。
決して主張し過ぎず、あまりの自然体のバッハとモーツァルトに、リヒテルの演奏だと知らなければ見過ごしてしまいそうになる。しかしながら、音楽そのものに真摯に向き合うリヒテルの姿を髣髴とさせる名演だろう。
ちょうど10年前、バシュメットはかつてのリヒテルとの思い出を次のように語っている。
昔、リヒテルと初めて、ショスタコーヴィチのヴィオラ・ソナタの練習をした時のことを、今でも覚えています。彼は偉大なピアニスト。私はまだまだ若い“駆け出しの”ソリスト。練習を始めて間もなく、リヒテルがピアノを弾く手を止めて言いました。
「ユーラ(訳注:リヒテルがユーリ・バシュメットに話しかける際の愛称)、あなたはこの曲をすでに弾かれたでしょう?私は初めてです。何か注文や希望があれば、アドバイスをしてください」
私は恐縮していると、リヒテルはさらに言いました。「立って演奏している方が、ソリストなのですからね」
リヒテルは、歳の差も経験の差もなく、同じ室内楽を演奏する対等な仲間、として私を見てくれました。ステージでは、対等なのです。どちらかに傾いてしまうと、それは良い音楽ではなくなってしまいますから。
~ジャパン・アーツのサイト
リヒテルの謙虚さが示された良い例だと思う。
どちらかというとバッハより僕はリヒテルの弾くモーツァルトを好む(バッハから約半世紀の後に生み出されたモーツァルトの音楽がどれほど進歩的だったかが並べて聴けば歴然だ)。確かにソナタも素晴らしかったが、K.503の雄大かつ開放的な楽想を、(一見何気ない様子に見えるが)老練の慈しみを込めて歌うリヒテルの演奏に心が動く。