ヤング指揮ハンブルク・フィル ブルックナー 交響曲第7番(ノヴァーク版)(2014.8Live)

ブルックナーは朝比奈隆に限る。
僕はずっとそう思い込んでいた。朝比奈隆のブルックナーが最高峰であることに違いはないが、唯一無二ではない。

チェリストの平井丈一郎が、かつて師であるパブロ・カザルスの教え方についてインタビューで聴かれた時、次のように答えたそうだ。

音楽は楽譜から始まったものではなく、音楽を楽譜に書いたものだから、楽譜に書いてある通りではいけない、楽譜から離れて非常に自由にならなくてはいけない。
フランソワ・アンセルミニ+レミ・ジャコブ/桑原威夫訳「コルトー=ティボー=カザルス・トリオ 二十世紀の音楽遺産」(春秋社)P192

僕は膝を打った。
音楽そのものは真理であり、楽譜はそれを単に記号化したもので、仮のものだということを忘れてはならない。その意味で楽譜至上主義とは一体何なのか?
以前、仏教を勉強したとき、ある高僧が「お釈迦様の説いた仏典がすべてであり、教典から一切出ない。ここにすべてがある」と仰られていて、多少の違和感を覚えた理由がそこにあったことを思いだした。目に見えないものを見える化した楽譜の発明は立派なものだ。しかし、それは音楽そのものではないということを前提にしなければならない。そう、真理そのものを感じ取り、自由自在にとらえることが音を楽しむということなのだと思う。

それならば十人十色、音楽にも数多の解釈があって当然で、そのすべてが是だろう。そう理解した直後に聴いたシモーネ・ヤングのブルックナーに、僕はあらためてブルックナーの真髄をとらえることができたように思う。

・ブルックナー:交響曲第7番ホ長調WAB107(1881-83)(ノヴァーク版)
シモーネ・ヤング指揮ハンブルク・フィルハーモニー管弦楽団(2014.8.29&30Live)

この女性的な、美しい旋律を持つ安心の交響曲こそ僕のブルックナー体験の原点。
幾度も書いているが、1980年10月の朝比奈隆指揮大阪フィル定期での演奏を聴いたとき、身体に電流が走ったことを思い出す。

そのときの新鮮な感覚が蘇るシモーネ・ヤングの颯爽たるブルックナーが心に迫る。

「第七番」初演には断固抵抗します。ハンスリックとその一派がある限り、ヴィーンでの初演は無意味です。ヴィーン・フィルが私の異議を無視するつもりなら、どうとでも好きにするがいい。いずれにしろパート譜が印刷されてないので、1月以前の演奏は無理です。聞くところではスコアその他(ピアノスコアなど)もまだ当分先になるとのこと。国外から2件、アメリカから3件注文が来ています。
結婚については、まだ相手が見つかりません。本当に私にふさわしい、愛すべき女性が見つからんものでしょうか? 確かにガールフレンドなら大勢おります。近頃ご婦人方に追い回されるので、やむなく理想の人物を演じておりますが。

(1885年11月6日付、マイフェルト宛)
田代櫂「アントン・ブルックナー 魂の山嶺」(春秋社)P221

この頃、ブルックナーには女性の崇拝者も現われ始めていたらしい。
それにしても当時61歳で理想の結婚相手を見つけようとしていた(結果として結婚はできなかったのだが)巨匠の俗っぽさが何ともおかしい。同時に彼の傷つきやすい性格がウィーンでの初演を拒否させるに及ぶ本心が赤裸々に見える様子に心が痛む。時代の一歩も二歩も先を行っていたアントン・ブルックナーの天才。
あまりに美しい。

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