光陰矢の如し

今年も早1週間が経過した。光陰矢の如し。

年末年始に帰省したときに出会った人たち、そして年賀状のやりとりで久しぶりに「再会(?)」した人たちの多くが意外にこのブログを楽しみに読んでくれているということがわかったことが収穫といえば収穫(読むだけでなくポチっとランキング・ボタン押してくださいね(笑))。5月に始めたからちょうど 8ヶ月が経つが、よくもまぁ毎日同じスタイルで書けるものだと我ながら感心する。僕は10代の頃からブルックナーの音楽に目覚め、同時に朝比奈隆の音楽に惚れ、ずっと愛好してきた(御大が亡くなってから生演奏は一度も聴いていないことは前にも書いたが)。ブルックナーは生涯交響曲を全く同じスタイルで書き続けた変人である。もちろん年輪を重ねるにつれ生み出す音楽の「精神性」は高度になり、最後は「神の境地」に達しているので、僕の日記などと比べるべくもないのだが、半ばストーカー的な「しつこさ」に関しては類似するものを感じる(僕の勝手な見解だが)。不器用な天才とでもいうのか、とにかく靴紐一つ自分で結べなかったというのだから「人」としてはとんでもない「孤高」の存在だったことは間違いない。

音楽史上では、ブルックナー同様後にも先にも唯一だという「孤高」の「天才」としてヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトがいる。大器晩成型のブルックナーに対し、モーツァルトは36年の人生をあっという間に駆け抜けていった夭折の天才。その生き様は正反対だが、創り出した音楽の「神性」はひょっとすると双璧かもしれない。

今日は新橋でビジネス・パートナーとミーティングをしていたのだが、ロビーでかかっているBGMを聴きながら上記のようなことを考え、何と言っても同じことをしつこく愚直に繰り返すことは生きていく上でとても重要なことだとあらためて実感する。

ところで、僕は今頃になってモーツァルトの音楽の本質がやっとわかってきたような気がする。本当は「気がする」だけで、まだまだなのかもしれないが、とにかく、交響曲だろうと協奏曲だろうとオペラだろうと、何度聴いても若い頃には感じられなかった「人生の明暗」、「わびさび」の世界が視えてくるのである。

モーツァルト:交響曲第38番ニ長調K.504「プラハ」
レナード・バーンスタイン指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

人生の絶頂期に、「フィガロの結婚」、「ドン・ジョヴァンニ」などとともにチェコのプラハで書かれた名作交響曲。80年代のバーンスタインの演奏はどれも重厚で粘着質である。ことモーツァルトに関していえば、クリストファー・ホグウッドのピリオド楽器による軽い演奏がブームになりつつあった時期においてこんなにも19世紀風浪漫的な演奏は時代に逆行するようで、おそらく好き嫌いがあると思うが、僕はずっしりとしてうねる音楽作りが好みだから、何度聴いても愉しい。どういうわけか「プラハ」は3楽章制なのだが、ひょっとすると40番やジュピターに優るとも劣らない大傑作だろうと思う。

⇒旧ブログへ


コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

アレグロ・コン・ブリオをもっと見る

今すぐ購読し、続きを読んで、すべてのアーカイブにアクセスしましょう。

続きを読む