自分らしくあること

先日の「早わかりクラシック音楽講座」ではドビュッシーを採り上げた。長いクラシック鑑賞人生の中でドビュッシーについてあれやこれやと考えを巡らせたのはひょっとすると初めてだったかもしれない。でも、とても勉強になった。人の、それも有名な芸術家の人生をざっとであれ俯瞰することは本当に意味深い。まず、どんな天才と言われる音楽家も「人の子」。そこには感情の浮き沈みがあり、玉石混交、聖なるものも俗なるものも入り乱れる。どんな偉い人だって人間である以上いつどんなときも聖人君子でいることは難しい。大なり小なり煩悩はいつまでたっても切り離すことができないものだから。

夜、ネットの調子が少しばかり悪くなった。データがアップロードできなかったり、メール送信に不具合が起きたり・・・。そんなときふと考えた。文明の利器というものは便利で使いようだが、それに縛られることはやめたほうがいいかも、と。機械の調子が悪くなるたびに苛立っていては精神衛生上良くない。ないと困るものだが、十何年前はなくても困らなかったことを思い出せと。焦らず、ゆっくりと付き合うこと。調子が悪いなら調整してみて、翌日またトライすればよし、たとえ期限はあっても時間は悠久なり。

ベートーヴェンほど達観は当然できないが、すべてが幻だとするなら自分らしくあることをもっと追求したいとあらためて思った。そこで、ドビュッシー。これほど人間的な音楽が他にあるか。これほど俗っぽい人間が極めてこんなにも高尚な作品を生み出したのだと考えると、人間の想像力というのは本当に無限だということ、そして考えようによっては現実をどんな風にもコントロールできるのだということを思い知った。かの作曲家もいかにも生きたいように生きたわけだし。

最後のソナタたちを収めた飛び切りの一枚。「神聖な舞曲と世俗的な舞曲」の人間臭さ漂う妖しさ。フルート、ヴィオラ&ハープ・ソナタもチェロ・ソナタもヴァイオリン・ソナタも全部最高。でも、「悟り」には至らず・・・(笑)。

ドビュッシー:
・ 神聖な舞曲と世俗的な舞曲
・ フルート、ヴィオラとハープのためのソナタ
・ チェロとピアノのためのソナタ
・ ヴァイオリンとピアノのためのソナタ
リリー・ラスキーヌ(ハープ)
ジャン=ピエール・ランパル(フルート、指揮)
ピエール・パスキエ(ヴィオラ)
ポール・トルトゥリエ(チェロ)
シャルル・シルーニック(ヴァイオリン)
ジャン・ユボー(ピアノ)
パイヤール室内管弦楽団

※エラートの懐かしきエスプリ・シリーズは昔よくお世話になった。そういえばこれらも80年代後半の製造じゃなかったか・・・。お陰さまでここのところちょくちょく取り出す音盤たちなので問題なく再生されるけれど。死蔵することなかれ、かな。


2 COMMENTS

雅之

おはようございます。

>文明の利器というものは便利で使いようだが、それに縛られることはやめたほうがいいかも、と。機械の調子が悪くなるたびに苛立っていては精神衛生上良くない。

唐突ですが、同じ原子炉を40年も使用し続けるってどうなんでしょうね。震災なんかなくても調子悪くならないほうが不思議なのではないでしょうか。

>ないと困るものだが、十何年前はなくても困らなかったことを思い出せと。

ベートーヴェンやブラームスやドビュッシーの時代、おそらく人類一人あたり平均の年間エネルギー消費量は、現在の我々の10~20分の1以下だったと思われます。私は去年もそんなことを書いた記憶がありますが、昨年と現在では読み手の受け取りかたは異なるんじゃないでしょうか?

>まず、どんな天才と言われる音楽家も「人の子」。そこには感情の浮き沈みがあり、玉石混交、聖なるものも俗なるものも入り乱れる

このごろ思うんです、芸術が作り手と受け取り手の心のやり取りで、相対的なものである以上、3・11の前と後では、作品に対する受け取り方も変化して当然なのではないかと。
たとえばドビュッシー「海」や、高田三郎「水のいのち」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E3%81%AE%E3%81%84%E3%81%AE%E3%81%A1
などを演奏したって聴いたって、未曾有の大津波の前と後で、演奏スタイルも聴き手の感じ方も変化しないほうがおかしいんじゃないかと・・・。

少なくとも芸術に心ある感受性の強い人が、ベートーヴェンやドビュッシー作品やその演奏を、震災や原発事故の前と後に、何事もなかったように同じ価値観と冷静な心理状態で平然と語れるって、私には信じられません。

東日本大震災を受け、山田洋次監督が4月1日にクランクインを予定していた新作映画『東京家族』の製作を延期し、2012年春の東京を舞台にした物語に脚本を見直すことが発表されたそうです。本作は、山田監督にとって、松竹大船撮影所の先輩にあたる小津安二郎監督の名作映画『東京物語』にオマージュをささげた映画で、物語の舞台を今日に置き換え、家族のきずなを描いた映画を製作することが発表されていたので、私も楽しみにしていたのですが・・・。
山田さんの下の言葉に、私は共感しています。

http://www.shochiku.co.jp/yamada50project/

僕はこんな風に考えた

 一年以上の歳月をかけて入念に準備を整え、間近なクランクインを控えてスタッフやキャストの気力が充実しきっていた時、3月11日の大災害が発生しました。
 
 このままそ知らぬ顔で既に完成している脚本に従って撮影していいのだろうか。いや、もしかして3月11日以前と以後の東京の、あるいは日本の人々の心のありかたは違ってしまうのではないか――僕は何日も悩み、会社ともくり返し相談した結果、それこそ苦渋の選択をしました。撮影を中断して今年の終わりまでにこの国の様子を見よう、その時点で脚本を全面的に見直した上で戦後最大の災害を経た東京、つまり2012年の春の東京を舞台にした物語をこそ描くべきだ、と云うことです。
 
 来年、ぼくたちは新たな気力を奮い立てて『東京物語』の制作に挑みます。どうか観客の皆さん、ご期待下さい。
    
山田洋次

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岡本 浩和

>雅之様
おはようございます。

>同じ原子炉を40年も使用し続けるってどうなんでしょうね。震災なんかなくても調子悪くならないほうが不思議なのではないでしょうか。

おっしゃるとおりですね。どうも人間というのは状況に慣らされてしまって、冷静に判断したりすることができなくなる動物ですよね。確かに、ベートーヴェンの時代との年間エネルギー消費量も大変な差だと思います。ここ2,30年の間でも随分違うんじゃないでしょうか?3.11以降、東京も夜は結構暗くなっていますが、それ以前は煌々と灯りが灯っていました。街並みが暗くなったといいますが、今が普通のことなのだと(これでも田舎に比べたら明るすぎる?!)思うのです。

>3・11の前と後では、作品に対する受け取り方も変化して当然なのではないかと。

同感です。僕がドビュッシーの「海」に親近感を覚えるようになった背景には3.11の経験があるからかもしれません。ところで、山田洋次監督の言葉、深いですね。同じく共感します。
本日もありがとうございます。

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