ヤニス・クセナキスの方法は、いわば先天と後天の融合とはいえまいか。
おっしゃる通り、私が作品の中に様々な計算をもちこむのは、別に数の遊びがしたいからではなく、自分の中に第二の自分を発見したいからなんです。直観で作曲することをいったんやめて、まずは知的に思考をめぐらせる作業をし、その中に私自身の性格とか、過去の経験とかを織り込んでいく―ちょうどセメントに砂と水と砂利とを混ぜて生コンをつくるように、そういう作業をして出てきた生コンの中にこそ、私自身の本当の姿、第二の私自身が見出せるはずだと、そう考えているのです。
(1986年10月23日、鮨処・利休にて)
~「武満徹著作集5」(新潮社)P76
その考えはあながち間違っていないのではないかと思う。
クセナキスは、目を醒ましているときに夢を見るという。あるいは、「もっとも人間なんて、昼でも夜でも、生まれてから死ぬまで、夢見ることしかしていないのかもしれませんよ」と。
確かに僕たちがあるこの世界は現実でもあり、幻でもある。諸行無常の世界にあって、すべては仮なのだが、仮もまた死んだということを彼は潜在意識で知っていたのであろう。
クセナキスの音楽は決して難しくない。むしろシンパシーを感じるほどだ。
そして、高橋はここでもすべての聴衆のアイドルであった。クセナキスの最新作『エオンタ』は5本の金管のコーラスと高橋悠治のために書かれているが、高橋の演奏は東京で聴いていたよりひとまわりもふたまわりも大きく、技巧的にもいっそう洗練されたように私には感じられた。熱狂的な拍手でこの作品と演奏はむかえられた。
『クロマモルフ第二』—高橋悠治のこと
~同上書P286
武満徹の冷静な眼がクセナキスを、そして高橋を的確に、また好意的にとらえている。
「エオンタ」は高橋悠治のために書かれたものだ。
ここはあえて高橋アキの比較的新しい録音で音楽を堪能しよう。
実際のところ、音盤だけではクセナキスの音楽の効果を確認することは難しいだろう。「エオンタ」にしても演奏中に管楽器奏者がステージを移動し、音響効果に変化を付加しているのだからそもそも実演を聴かない限り、その音楽の是非を語ることはできない。
一つ言えるのは、60年代初頭、世界を席巻した前衛(幻想)の中にあって、「今」を投影する現実的な音が育まれていることだ。おそらくそれは、クセナキスの先の言葉にもあるように、知的な思考と感性とが合体した結果生み出されたピアノと管楽器(トランペット&トロンボーン)のための音楽であり、それを高橋悠治の実妹であるアキが中心になって(ある種)官能の極みたる演奏を披露している点だ。混沌から調和へ。音楽はどこまでも平和を希求する。
武満との対談をクセナキスは次のように締めくくっている。
そして何より尊敬しているのは、日本人が軍備というものを持つことなしに、今日の繫栄と平和を築きあげたということです。そうした美点を大切にしていかれたら、今、武満さんがおっしゃったような危惧は避けられるだろうと思うのですが・・・。
~同上書P86