ホルライザー指揮ベルリン放送響 ジークフリート・ワーグナー 交響曲ハ長調(1986.4録音)

死の数ヶ月前のコジマ。

92歳になったコージマは、彼女の周りで何が起こっているのかを理解できなくなっていた。家族は、コージマが1927年に90歳の誕生日を迎えたことも、刺激しないようにとの配慮から、本人には告げなかった。ジークフリートの手紙には、コージマは過去のことは信じられないくらいはっきり覚えているが、少し前に何があったのかは、神の御加護によって忘れてしまう!(今のドイツの何を覚えておく必要があるというのだ!)傍には常に家族がいるが、我々がひどく困窮しており、借金をしなければならないことは分かっていない! 言うなれば、幸福な晩年だ!」。家族は、「あたかも聖壇にぬかずくが如く」接していた。
ブリギッテ・ハーマン著/鶴見真理訳/吉田真監訳「ヒトラーとバイロイト音楽祭―ヴィニフレート・ワーグナーの生涯(上・戦前編)」(アルファベータ)P213

この9月に卒寿を迎える我が父を見ていても同じような印象を受ける。
しかしながら、少なくとも父は母を、つまり自身の妻(要介護5)を介助・介護しなければ死ねないという意思が強くあり、それが「甲斐」になっている。人間には志や甲斐が必要なのだと思う。

多忙なジークフリートがツアーで不在中の1930年4月1日、コジマは逝った。

翌朝になって二人がバイロイトに到着した時、コージマの遺体は月桂樹の下、友人パウル・フォン・ジューコフスキーが描いた、「巨匠」と彼女が最も愛した絵である『聖家族』の前に安置されていた。『聖家族』は、ダニエラを聖母、ブランディーネ、イゾルデ、エーファを音楽を奏する天使たち、ジークフリートを生まれたばかりのイエスとして描いていた。近親者による教会での葬儀の後、棺は祝祭劇場の周りを一周し、火葬のためにコーブルクへ運ばれた。参列した全ての者は、血の気のない死人のようなジークフリートの顔色に愕然とした。最後にコージマの骨壺は、彼女の古い友人クリスティアン・エバースベルガーの手でワーグナーの墓の頭部に納められた。
~同上書P216

母と息子の絆は相当叵ものがあったのだろう、それからわずか数ヶ月後、ジークフリートは母の後を追うように逝った。責任感が強いための過労状態だったのである。

1930年7月18日昼食時、ジークフリートは心臓発作を起こしたが、数時間後の《神々の黄昏》のリハーサルに出ることを諦めなかった。第3幕の後の17時頃、彼は舞台で倒れた。心筋梗塞だった。
~同上書P220

ほぼ自殺のようなものにちがいない。

1930年8月4日、死亡報告書によれば、「自ら指揮した本年の音楽祭開催準備の犠牲となって」、ジークフリートは逝った。33歳のヴィニフレートと成年に達していない4人の子どもたち、13歳のヴィーラント、12歳のフリーデリント、11歳になるヴォルフガングと9歳のヴェレーナが遺された。
~同上書P222

崇高なる舞台と過酷な現実との間で犠牲となったジークフリートは、亡くなった母の期待を背負い、そして、実父リヒャルトに対する劣等感と憧憬が入り混じる精神状態にずっとあったのだろう。
後期ロマン派の流れを汲むジークフリートの交響曲。

・ジークフリート・ワーグナー:交響曲ハ長調(1925/27)
ハインリヒ・ホルライザー指揮ベルリン放送交響楽団(1986.4録音)

重厚なるドイツ精神を引き継ぐ大交響曲。
一切の踏み外しなく、形式の中で大らかな浪漫を紡ぐのは、師であるエンゲルベルト・フンパーディンクの衣鉢を継ぐものだろう。
1925年に一旦完成をみるが、27年に第2楽章を差し替えた改訂版が作られている(ホルライザーが指揮するのはこちらの最終決定版)。新たに創造されたト長調の第2楽章がことのほか美しい(高らかに終結を迎える終楽章も幸福感に満ちる素晴らしい音楽だ)。

ジークフリートはリヒャルトの息子でなければ十分世界的に通用した作曲家になったのではなかろうか。構成的にも旋律的にも実に立派な交響曲であり、ほぼ忘れ去られていることがとてももったいない。

過去記事(2015年4月2日)


コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

アレグロ・コン・ブリオをもっと見る

今すぐ購読し、続きを読んで、すべてのアーカイブにアクセスしましょう。

続きを読む