ぼくにとって、もっとも大切なことは、女性が女性らしさを失わないということだ。女性をユニークなものにする女性の美しさというのは、女性的なものの本質のなかにある。女性の本質は男性とは違う、というより、まったく正反対のものだということだ。
~樋口泰人責任編集/鴻英良監修「タルコフスキーAtワーク」(芳賀書店)P132
映画「ノスタルジア」の冒頭、ヴェルディの「レクイエム」から『レクイエム&キリエ』が意味深く流れるシーンが僕は好きだ。死というものを拒絶し、信じなかったタルコフスキーがあえて鎮魂曲を挿入するのだから、果たしてその意味するところは何だったのか?
以前、死ぬ夢を見た。とてもリアルだった。明るくて自由な感じだった。その感じは私に「本当に死んだ」という印象をあたえた。この世の全ての、厄介なものから解放された感じだった。(しかし)私は死の存在を信じていない。あるのは痛みと苦痛だけだ。人間はよくこれらの概念を混合してしまう。私はそう信じている。自分でもよく分からない。多分、死に直面したら、結局こわがって別のことを言うかもしれない。難しいことだが・・・分からない。
~同上書P140
たぶん心の奥底では彼は信じていたのだと思う。だから彼はリアルな夢を見た。
厄介なものから解放された感覚がすべてだ。
「レクイエム&キリエ」に続くのは、かの「怒りの日」だ。
ヴェルディの作曲した、渾身の、壮絶なる音楽がトスカニーニによっていかにも動的に、慟哭をもって演奏される様子に言葉を失う。これほど情熱的な、魂からの叫びがあろうか。いわば女性的な第1曲に対して、逞しい第2曲は男性性の証とも言えまいか。それによって、「レクイエム」の女性性的な側面が一層強調されるのである。
「ノスタルジア」は、外から見た故郷の心象風景だ。世界を縦横に駆け巡り、飛び回るがゆえに人間の感性は磨かれる。一所に止まってはならぬと言わんばかりにトスカニーニは攻める。迫真の音楽が肺腑を抉る。
ジュゼッペ・ヴェルディ没後50年の命日における、カーネギーホールでのライヴ録音。
火を噴く勢いと指揮者の猛烈な怒声(?)までが記録される、一世一代の演奏。とても83歳の爺様が指揮しているとは思われぬ生命力の発露に言葉を失う(死者の鎮魂どころか目を覚まさせるようなエネルギーだ)。
僕の個人的な感覚では、ヴェルディとトスカニーニはまるで兄弟かのような性質の一致が見られる。それゆえにトスカニーニは作品と完璧に一体となれるのだろうと想像する。
凄い演奏だ。
ぼくは自分の生れ故郷が大好きだ。長いこと離れて暮らすなどということは考えられない。ここに来てずいぶんなるけど、ぼくの田舎に、ぼくの家に、ぼくが生れた場所に激しいノスタルジアを感じている。ぼくはぼくの土地、ぼくが祖国と呼んでいる土地がとても好きだ。たぶん、いままで何年も住んでいたモスクワより、田舎のほうが好きだと思う。
~同上書P143
ニューヨークのトスカニーニは祖国パルマに何を思っていたのだろう?
『ノスタルジア』において私にとって重要だったのは、〈弱い〉人間というテーマを続けることであった。この〈弱い〉人間は、見掛けは戦士ではないが、私の観点からすれば、この人生における勝利者である。ストーカーもまたモノローグにおいて、現実的な価値であり、人生の希望である弱さを弁論していた。私は実践的な意味で現実に適応できない人が常に気にいっていた。私の映画には、(おそらくイワンを除いて)ヒーローは存在しなかった。
~アンドレイ・タルコフスキー著/鴻英良訳「映像のポエジア―刻印された時間」(キネマ旬報社)P307