辻邦生さんのワーグナー論に膝を打った。
時間という当たり前の概念を上書きされたような感じ。
(確かに「固定時間」という自然の流れを現代世界は、否、僕たち現代人は喪失している)
そして、ワーグナーが生死の問題を解決できぬ状況の中で、カルマや輪廻転生を真に理解し、楽劇という形態を通して人類に警告を送っていたことが腑に落ちた。
たとえば日本人の時間意識は、時間の語源であるハカ(ハカがゆく、ハカる、ハカバカしい等で現在も使う)が稲を刈取るための労働の長さであるように、物に内在する固有の長さを基準としていた。果実にはそれが熟すに必要な固有の期間があるように、自然の万物には、その変化に伴う固有の長さがあるのである。この時の長さはある事の到来を待つ時間であるが、同時にそれは包まれて安らいでいる時間である。ちょうど母胎にいる赤子が誕生を待つような具合に、日本における季節ごとの年中行事(節分、雛祭り、月見など)はこの固有の時間意識の名残りなのである。
ワーグナーが「指輪」の中で原神話の根底まで降りていったのは、西欧ではルネサンス以来、技術と科学の発展とともにこの〈固有の時間〉の破壊が明確となり、それに替る〈計量的時間〉の支配が圧倒的となっていたからだった。彼は「指輪」によってそれに抵抗的に反抗したのである。
「指輪」がワーグナーの魔的な創造力によって生みだされたのも事実だが、それが無数のライトモチーフの網目によって組み立てられた精緻な音楽の布地であることが示すように、極度に意識的な作品である。その主題がワーグナーの上に巨大な重さとなってのしかかったのは、彼が、この〈固有の時間〉の喪失という根源的主題が無数の主題群となって同時的に現われていることを意識していたからだ。そしてその重さに耐えて「指輪」を完成したのは、〈固有の時間〉の奪還こそが人間の救済であることを見通し、それがその全主題を綜合しうると信じられたからである。
「時を奪還するものとしての『指輪』」
~「辻邦生全集19」(新潮社)P100
晩年、東洋哲学にはまったワーグナーにあって、月齢の重要さを認識し、ルソーのいった「自然に還れ!」という意味が明確に腑に落ちた結果としての「ニーベルングの指環」であったことを辻は切れ味鋭く指摘する。そして彼は、続けて次のように書くのだ。
「ラインの黄金」序曲の根源的な変ホ音から始まって「神々のたそがれ」の救済的なモチーフの中に法悦的に包まれるまで、われわれが経験するのは、生というものの〈固有の時間〉である。それは〈計量的時間〉のさなかに突然現われた奇跡的現実なのだ。われわれは「指輪」全曲を4日間聞くのだとなどと言ってはならない。われわれはそこで、かつて母の胎内で10か月冒険と至福の中にいたとき、まったく時がなかったと同じように、そのように永遠の中に生きていると言わなければならない。人が自然の持つ〈固有の時間〉のなかに安らいだとき(それは技術的現代がますます強化する〈計量的時間〉を断乎克服して手に入れなければならないのだが)、そのときわれわれは初めてこの作曲家が捉えた〈森のささやき〉を、〈愛〉と〈憎しみ〉を、〈犠牲にあがなわれた浄化〉を—つまり人間存在の全ドラマを歓喜と肯定のなかに聞くことができるのである。
~同上書P100-101
「指環」に僕が永遠を思い、人間の醜さを、愚かさを、そして純粋なる絶対的愛が解脱を喚起するのだというワーグナーの希望を感じ取るのは、まさにこの大作曲家が東洋的な包括的視点で世界を見ることができていた証拠だ。
クレメンス・クラウスのバイロイト音楽祭の記録。
クラウスの実演はあくまで伴奏に徹した見事なもの(黒子に徹しているとはいえその指揮ぶりはさすがといえる)。
同時代を代表するワーグナー歌手の素晴らしい歌唱と演技を陰からサポートする誠心誠意の賜物と言っても良いのではないかとさえ思う。それでいて管弦楽に芯が通り、「ラインの黄金」前奏曲から「神々の黄昏」の「ブリュンヒルデの自己犠牲」まで果敢に、そして直截に、物語が音楽によって語られる。
貴族的な典雅さを飛び越えて、人間感情の奔流が至るところで散見される鮮烈な「指環」(とでも表現しようか)。よもや翌年(出演が決まっていた)音楽祭の前に急逝してしまうとは誰も想像しなかったであろう、会場の熱い雰囲気までが刻印されたバイロイト実況ライヴに言葉がない。クラウスの死は人類の痛恨事と言えるが、そのおかげでクナッパーツブッシュが復帰し、亡くなる前年まで「パルジファル」に登場できたのだからそれはそれで良しとしよう。
あっさりと奏される宇宙生成たる「ラインの黄金」前奏曲の無為に感動(直後のラインの乙女たちの歌がまた美しい!)。
そして、「ジークフリート」第2幕第2場、いわゆる「森のささやき」におけるヴィントガッセン扮するジークフリートの未だ見ぬ母を思う歌に心が動く(生物は皆母から生まれる。母の存在に対するジークフリートの愛)。続いて調子はずれの葦笛吹きから得意の角笛に持ち替えての「ジークフリートの動機」からファフナー(ヨーゼフ・グラインドル)が目覚めるシーンの鬼気迫る、不気味な神秘よ(グラインドルの存在が実にリアルだ)。
あるいは「神々の黄昏」終幕最終シーン「ブリュンヒルデの自己犠牲」におけるヴァルナイの思い入れたっぷりの壮絶な歌唱に対してクラウス指揮するオーケストラの、悠々たる姿勢と一歩一歩確実に踏みしめるように進む巨大な音楽の創造に歓喜し、ハーゲンの「指環から離れろ!」という断末魔たる苦悶の表情に(ここでハーゲンに扮するのはまたしてもグラインドル!)途轍もない哀しみ(決して解決されることのない苦悩の人間ドラマ)を覚えるのだ。
クレメンス・クラウス指揮バイロイト祝祭管の「神々の黄昏」(1953.8.12Live)を聴いて思ふ クレメンス・クラウス指揮バイロイト祝祭管の「ワルキューレ」(1953.8.9Live)を聴いて思ふ クレメンス・クラウス&バイロイト祝祭管の「ジークフリート」(1953.8.10Live)を聴いて思ふ