狂信的ワーグナー信者から踵を返すように一転、反ワーグナー派に転じたニーチェ。
そもそもヴァーグナーは音楽家であったのか? いずれにしても彼はそれ以上の何か別のものであった、すなわち比類のない道化師histrio、最大の身振り狂言師、ドイツ人がこれまで所有した最も驚くべき劇場の天才、すぐれて現代の舞台芸術家であったのである。彼は音楽の歴史以外のどこか別のところに属すべきであり、だから彼を音楽史上の偉大な本物と取りちがえてはならない。ヴァーグナーとベートーヴェン—これは一つの瀆神であり—また結局はヴァーグナーに対してさえ一つの不正である・・・彼は音楽家としても、彼が総じてあったところのものにすぎなかった。なるほど彼は音楽家になり、彼は詩人になりはしたが、それは、彼の内なる暴君が、彼の俳優的天才が彼をそのように強制したからである。彼の支配的本能を察知していないかぎり、人はヴァーグナーについて何ひとつとして察知してはいないのである。
ヴァーグナーは本能からの音楽家ではなかった。このことを彼は、音楽におけるあらゆる法則性と、もっと明確に言えば、あらゆる様式とを、彼が必要としたもの、すなわち、演劇的修辞法を、表現の、身振り強化の、暗示の、心理学的に絶佳のものの手段をそれらでつくりあげるために、放棄したということでもって証明した。
~原佑訳「ニーチェ全集14 偶像の黄昏・反キリスト者」(ちくま学芸文庫)P312-313
何と辛辣な評であることか。極論、リヒャルト・ワーグナーは似非だったとニーチェは言うのだが、1世紀以上を経た現代においてワーグナー受容を考えると、この論自体は決して正しいとはいえない。
しかし、愛するがゆえの憎悪という点から言葉そのものには一理ある。
三光長治さんは以下のように書く。
フランスの「最初の知的ワグネリアン」がボードレールだとすると、ドイツにおいてその位置を占めるのは、疑いもなく『悪の華』の詩人をその面から評価した当のニーチェである。ただニーチェは後年「バイロイト」に反旗をひるがえしたので、その面は影に蔽われて見えにくくなった。にもかかわらずワーグナーをテーマにした彼のテクストを先入見抜きで虚心に読む者は、この特異なワグネリアンが、終生、「バイロイトのマイスター」に対する敬愛の念を失わなかったこと、若年の彼が弟子として師匠に捧げたオマージュにしても、いまなお妥当性を失っていないことに気がつくだろう。たとえば著述家ワーグナーに言及した次のような条。決して手放しの礼賛論ではなく、その文体から「裃をつけたようないかめしい調子」や「敵を前にして語っているという感じ」などを読み取っているが、それに続く部分では「副次的な単語の多用のために膨れあがった重々しい技巧的な綜合文は姿を消し、ドイツ語の散文の中でももっとも美しい部類に数えられるような文章が、時には数ページにわたって繰りひろげられる」と述べている(「バイロイトにおけるリヒャルト・ワーグナー」)。
~ワーグナー著/三光長治監訳/杉谷恭一・藤野一夫・高辻知義訳「友人たちへの伝言」(法政大学出版局)P463-464
人工的な、研ぎ澄まされた手法だけによってあれだけの舞台綜合芸術が生み出せるはずはないことは自明だ。ワーグナーの方法は類を見ないものであり、その創造物は真であったのだが、人間という観点から判断したなら、当然ながら決して聖人君子ではなかった。ニーチェはワーグナーの俗物なところに失望し、師匠に「聖」であることを求めたのだろう。しかしながら、本来聖俗一体であることを僕たちは忘れてはならない。
(だからこそニーチェのワーグナー批判にはかつてあった手放しの礼賛が垣間見えるのだと三光さんは言うのだろうか)
ワーグナー芸術は、決して聖なるものではない。どろどろの愛憎含めた作曲家の実体験がそこには刷り込まれている。そして、そういう芸術を再現するにあたり、指揮者や演奏者に求められるのは具体的な実体験であり、また聖なる見性体験なのだと僕は思う。
トスカニーニを聴いた。
とても熱い。「森のささやき」など、ささやきとは思えないほど内から湧き上がる熱気に呆然となる(もちろん良い意味で)。
「神々の黄昏」からの抜粋は一層熱い。メルヒオールのジークフリートのあまりに人間的な表現に、少々古臭さを感じなくもないが、これがまた俗物ワーグナーの弱点を披露するようで興味深い。
その一方、トローベルのブリュンヒルデは少々明るすぎるきらいを感じなくもない。もう少し重厚さがほしいという私見。