アロノヴィッツ アマデウス四重奏団 モーツァルト 弦楽五重奏曲第4番ト短調K.516(1969.9録音)ほか

昔から辻邦生さんの高雅な文章が好きで読み漁ってきた。
かれこれ20年ほど前に新潮社から全集が出たので、それを買い求め、積読状態だったものをひもとき、今になってようやく1巻ずつ繙いている。
第19巻は「音楽・美術・映画をめぐるエッセー」と題されており、そのすべてが機知に富み、実に面白い。

「モーツァルト断章」を読み、とても納得した。

モーツァルトの初期の作品を覆う優雅な宮廷風の官能美—ブーシェやワトーのギャラントリー様式から、信じられない速度で後期の、複雑な、内面化された、心象の告白的な様式まで深化する音楽的個性の根底に、こうした無垢な、およそ作為を知らぬ精神が立っている。たしかに音楽史的に見れば、モーツァルトはそれ以後に出る音楽を先どりしているとも言える。たとえばト短調クインテット(K.516)などはベートーヴェンの後期のクワルテットを思わせる。この内省的な、生と死の深淵に導く重厚な音楽は、ボンに生れた苦悩の天才の生涯の帰結の一つであるが、その成果をさらに深めたごとき世界を、モーツァルトはこのクインテットのなかで果たしているのである。
「モーツァルト断章」
「辻邦生全集19」(新潮社)P84

モーツァルトのたった35年の人生は、凡人の何倍も、否、何十倍も濃いものだった。天才ゆえの人智を越えたスピードでの進化、そして深化。ベートーヴェンの先どりとは、それ以上に深めたと断言する辻さんの言葉に膝を打った。

アマデウス四重奏団がセシル・アロノヴィッツを迎えて録音した演奏は僕の座右の盤だ。
こんなに素敵な、そして深淵に触れる高貴な音楽がどこにあろうか。
初期のギャラントリー様式を湛えた変ロ長調K.174(1773)の愉悦からどうしようもない悲哀に包まれた慟哭のト短調K.516(1787)第1楽章アレグロに聴こえる生の底知れぬ悦びの対比こそ、辻さんのいう「信じられない速度での深化」を体験できるもの。そして、あちこちで議論の的になる終楽章の序奏アダージョから主部アレグロへの移行こそ当時のモーツァルトの「死を受け入れる」、あるいは(本人の意志とは別に)「すべてが菩薩であること」を理解した心の真骨頂だと思う。第3楽章アダージョ・マ・ノン・トロッポがまた極めつけの美しさ。

モーツァルト:
・弦楽五重奏曲第1番変ロ長調K.174(1773)(1974.9録音)
・弦楽五重奏曲第4番ト短調K.516(1787)(1969.9録音)
・弦楽五重奏曲第6番変ホ長調K.614(1791)(1968.4録音)
アマデウス四重奏団
ノーバート・ブレイニン(第1ヴァイオリン)
ジークムント・ニッセル(第2ヴァイオリン)
ペーター・シドロフ(ヴィオラ)
マーティン・ロヴェット(チェロ)
セシル・アロノヴィッツ(第2ヴィオラ)

そして、最後の五重奏曲となる(1791年4月12日完成)第6番変ホ長調K.614の、この年の裡にモーツァルトが亡くなってしまうとは思えないあまりの自然体に言葉がない(傑作K.516以上の、モーツァルトの行き着いた境地が示されているように思う)。

シェイクスピアと同じように、彼も、現実に要求に応じて、人々にたちまじって、楽々と、素早く作品をつくりあげていった。そこには何の気取りも、誇張も、勿体ぶりもない。二人とも、職人が品物をつくるように、作品をつくって公衆に手渡しているのだ。それは精神が地上を疾走してゆく、ごく自然の形とも言える。花が咲き、散るように—星が夜空を走るように—そのように人間は地上を過ぎてゆくべきものだ。こういう自然な無垢な眼だけが、真実の一切を見る。一切を見て、しかもその見たことを明晰に保ちつづけるのだ。
~同上書P85

モーツァルトは人間ではなかったのかもしれない。

アマデウス四重奏団のモーツァルト五重奏曲K.515(1967録音)ほかを聴いて思ふ アマデウス四重奏団のモーツァルト五重奏曲K.515(1967録音)ほかを聴いて思ふ アマデウス四重奏団のモーツァルト弦楽五重奏曲K.614ほかを聴いて思ふ アマデウス四重奏団のモーツァルト弦楽五重奏曲K.614ほかを聴いて思ふ

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