アバド指揮ベルリン・フィル マーラー 交響曲第7番ホ短調(2001.5Live)

リヒャルト・ワーグナーに追いつけ追い越せと、人生を急いだグスタフ・マーラーの天啓。
最晩年のワーグナーが至った思想を自らに取り込んで、創造に勤しんだマーラーの苦悩と愉悦。彼の作品には人間の、あらゆる情感が刻印される。

マーラーの音楽は大自然の表象だ。
世界は陰陽のバランスの中で閉じられている。すべては相対であり、同時に相待だという(相対する一方、そこには調和がある。互いに打ち消し合って一つになるということ)。
一見脈絡のないコラージュ的つながりの中にある大調和こそマーラー作品の本懐。
ひとたびそのことを理解できれば、すべてがあまりに美しい完璧な傑作となる。

激烈なスケルッツォの半ばに突如として幻のように浮かび上がる長閑なわらべ歌の安逸。そうかと思えばまた、嫋々と繰り広げられる抒情のしらべを藪から棒に突き破って中断する異物の「貫入」。この互いに相容れるはずもない異質なものどうしが、あざといまでのコントラストをなしつつ夢と現とを往き来するところこそマーラーの音楽世界の真骨頂をなすものにほかならないが、つまりここでは明暗黒白はつねに表裏一体にして不即不離。たえず他方と入れ替わる時を窺っている。そのきっかけはおそらく、現世のどこにでもころがっているかもしれないが、それがなかなか並の視角からは目に入らない。神隠しにあったかのように幼きマーラーが森に置き去りにされたのも、じつはかかる万象の時の隙間へいつのまにか滑り込む特異な才能にめぐまれていたことの早い発現かもしれない。
(須永恒雄)
ヘルタ・ブラウコップフ編/須永恒雄訳「マーラー書簡集」(法政大学出版局)P463-464

マーラーの本質を読み解いた訳者あとがきに膝を打つ。
年齢を重ね、還暦を迎え、ようやく僕にもマーラーの本質が見えてきたように思う。

1908年9月19日、交響曲第7番ホ短調、プラハにて初演さる。

昨日のお便りにつづけて以下のとおり申し上げます。
計画中の巡業に私の最新作《第7交響曲》の初演を行なうことは、ご希望でしょうか?
編成の点でも適当かと存じます。4本のホルンと3本のトランペットと並みの規模の打楽器が入るだけですから。また4管編成の木管楽器とギター1丁、マンドリン1丁が増えるだけです。これは私の最上の作で、明るい気分が優勢です。この点に関しましても4月1日までにお返事をお願いいたします。それがかなわぬ場合には他からの申し出も受けざるを得ませんから。

(1908年初、ニューヨークからエーミール・グートマン宛)
~同上書P352

作曲家自身には自負があったことがわかる。後世がどんな評価を掲げようと、終楽章こそが最高の出来であったであろうことが言外に伝わってくる。陰陽相対(そしてまた相待)であり、また相待の顕現たる交響曲第7番の、静かな名演奏。

・マーラー:交響曲第7番ホ短調(1905)
クラウディオ・アバド指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(2001.5Live)

癌に侵されていることを公表した直後のライヴ録音ゆえか全編を通じて余分なものを削ぎ落した、透明度の高い、脱力の名演奏。何より見通しが良い。
ベルリン・フィルの機能性を存分に生かし、音楽はどこまでも淀みなく、最高のパフォーマンスを繰り広げる。第1楽章の、切れば血の出るような蠢きに惹きつけられ、第2楽章「夜の歌」の繊細な歌に癒される。

中心線となる第3楽章スケルツォの幽玄。これぞマーラーの本質を衝いた解釈だと僕は思う。

突如として明解な音楽が流れるアンバランスと言われる終楽章も、ここでは前4楽章と見事に溶け合っているのだから素晴らしい。

終演後の聴衆の喝采がすべてを物語る。

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