スウィート イェルザレム リポフシェク ヴェルカー ラングリッジ ズーコヴァ ウィーン国立歌劇場合唱団 アバド指揮ウィーン・フィル シェーンベルク グレの歌(1992.5録音)

こういう大管弦楽作品は実演を聴かねばその真価はわからない。
かつてシルヴァン・カンブルランが指揮した読響定期の「グレの歌」は、僕に圧倒的な感銘をもたらしてくれた。

シルヴァン・カンブルラン指揮読売日本交響楽団第586回定期演奏会

しかしながら、作品をより詳細に、分析的にマスターしようとするならやはり音盤に優るものはない。繰り返し反復することで得られる別種のカタルシス。

詩人のリヒャルト・デーメルに宛てた手紙では、1912年のことだが、シェーンベルクは《ヤコブの梯子》の作曲について知らせつつ、過去を振り返るかたちで《グレの歌》以降の自分の発展について述べている。「私は、ずいぶん前からオラトリオを書こうと思っています。それは、こんな内容のものとなるはずです。唯物主義、社会主義、無政府主義の洗礼を受け、無神論者であったものの古い信仰の小さななごりを(迷信のかたちで)持ち続けていた今日の人間が、そうした現代人が、どのように神と闘い(・・・)そして最後に神を見いだして宗教的になるまでにいたるか」。唯物主義、社会主義、神との闘い。それは《グレの歌》を構想した時期の思考上の基盤であった。この作品における最終的な「救済」は、イェンス・ペーター・ヤコブセンにあっても、またシェーンベルクにあっても、徹底して地上的に解釈されている。それは、力強い自然の更新のプロセスのなかで起こるのである。
ハルトムート・フラット/岩下眞好訳「ヤヌスの双顔をした大作 アルノルト・シェーンベルクの《グレの歌》における愛と死と人生肯定についての内輪な巨大嗜好」
POCG-1863/4ライナーノーツP12-13

さすがに後に十二音主義を提唱する作曲家だけあり、すべてが現実的だ。
それに、途中、12年間もの中断を経ての完成であるがゆえの音響に関する違和感もない。むしろ、時間によって熟成された華麗な、深みのある色彩に満ちているように思う。

・シェーンベルク:独唱、合唱、管弦楽のための「グレの歌」(1900-11)
ジークフリート・イェルザレム(ヴァルデマール、テノール)
シャロン・スウィート(トーヴェ、ソプラノ)
マリャーナ・リポフシェク(山鳩、メゾソプラノ)
ハルトムート・ヴェルカー(農夫、バリトン)
フィリップ・ラングリッジ(道化師クラウス、テノール)
バルバラ・ズーコヴァ(語り手)
ウィーン国立歌劇場合唱団
ディートリヒ・D.ゲルファイデ(合唱指揮)
アーノルト・シェーンベルク合唱団
エルヴィン・オルトナー(合唱指揮)
ブラティスラヴァ・スロヴァキア・フィルハーモニー合唱団
ヤン・ロツェーナル(合唱指揮)
エルヴィン・オルトナー(合唱総指揮)
ペドロ・アルカルデ(音楽助手)
クラウディオ・アバド指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(1992.5録音)

東洋的全体包括の原理に至る嚆矢の一つはマーラーの「大地の歌」だろうが、西洋的二元論の極致こそ「グレの歌」であったのではなかろうか。

もちろん第一部のなかでのヴァルデマールとトーヴェのモノローグから出会いの悦び。そして、トーヴェの死に至る明から暗へ。あるいは、亡霊となったヴァルデマールと家臣たちの荒々しい狩から、朝の到来によるエピローグにいたる暗から明へ。これらの明暗への推移が、それぞれ第一部と第三部には存在する。
さらにいえば、シェーンベルクは、最初のヴァルデマールの歌の前に「日没」を描く前奏曲を置き、最後の混声大合唱に「太陽を見よ!」という一種の「太陽賛歌」を歌わせることで、この物語詩が日没から日の出までの間に収められていることを、音楽的に強調したのである。

石田一志著「シェーンベルクの旅路」(春秋社)P44-46

第一部の聴きどころは、何と言ってもヴァルデマールとトーヴェが交互に歌う対話だ。中でも、(石田さんも指摘するが)第7曲「今は夜半」(ヴァルデマール)でヴァルデマールが抱く死への不安をトーヴェがなだめる第8曲「君は我に愛のまなざしを送り」だ。

前時代的ではない、革新的なシャロン・スウィートの「トリスタン」を超えた官能の歌がここにはある。

彼女は人間の死という運命を、自然の普遍の循環と関連づけ、すべての再生を主張する。二つの歌は死の予感と死の受諾の関係にある。
~同上書P47-50

トーヴェの転生への安寧の指南こそ「グレの歌」の核心の一つと言えよう。
しかしヴァルデマールにはわからない。短い、鏡面的役割を担う第二部はヴァルデマールの「神よ、などて我より」という、トーヴェを失ったことから発せられる神への非難だ(雄渾な音調ながらあまりに激し過ぎるヴァルデマールの不信をイェルザレムは見事に表現する)。

神よ、などて我より、
かの愛しきトーヴェを奪いたまいしか?
我が幸のために得し最後の喜びを、
などて我より追いたまう!
主よ、汝は恥ずべきなり。
乞食の最後の小羊を奪うとは!

(渡辺護訳)

そして、第三部の核心は、個人的には管弦楽前奏に続いてシュプレヒシュテンメで唱されるメロドラマ「夏の風の荒々しき狩り」だ。ここでは、明るい陽光のもと、数多の自然の聖名が蘇ることが語られる。

《グレの歌》の語り手の語る内容、それはすでに伝説の物語の世界ではない。植物学者であり、実証主義の自然科学者であったヤコブセンの鋭い観察眼、自然の力に畏怖の念をもつ陰影深い自然描写がここにダイナミックに展開する。
~同上書P54

相対の世界は相待の世界に等しいという。対はすなわちパートナーだと言うことである。
森羅万象が調和の中にあることをあらためて思い知る。
終曲は、混声合唱による壮大な「太陽賛歌」。

仰げ、太陽を、
天涯に美しき色ありて、
東に朝訪れたり!
夜の暗き流れを出でて
陽はほほえみつつ昇るなり、
彼の明るき額より
光の髪は輝けり!

(渡辺護訳)

世界は解放を求めている。誰もが有限の世界から無限の世界への覚醒を欲しているのだということがわかる。

そしてついに、八声部の混声大合唱が太陽の到来の喜びを歌いあげる。この「太陽を見よ」の合唱で、音楽は燦然と輝くハ長調に開花する。《グレの歌》の最後の28小節には、ひとつのシャープもフラットも存在しない。ここでヴァルデマールの苦しみは、宇宙的汎神論的畏敬のなかに溶解する。
~同上書P56

後にシェーンベルクはシステムから音楽を解き放とうと試みたのだが、それ自体がまた別のシステムとして機能し始めたという事実を忘れてはならない。所詮人智などそれくらいなのである。

ラトル指揮ベルリン・フィルのシェーンベルク「グレの歌」(2001Live)を聴いて思ふ ラトル指揮ベルリン・フィルのシェーンベルク「グレの歌」(2001Live)を聴いて思ふ グレ、グレ、グレ、・・・ グレ、グレ、グレ、・・・

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