厳格なエーリヒ・クライバーは、稽古においても本番においても一切の妥協を許さなかったという(その点は、息子のカルロスも受け継いでいる)。
チャイコフスキーのロ短調交響曲(《悲愴》)でよく起こることだが、第1楽章のクラリネットの静かな独奏の間、同僚の奏者は自分たちの出番に備えて楽器の手入れと整備にいそしんでいる。これも、クライバーは許さない。Alles gespannt!〈全員緊張して!〉と指令を下し、彼は自分の主義を曲の終わりどころかその後まで貫いた—その指揮棒の置き方は、まるで希少な本をそっと静かに閉じるかのようだった。
~ジョン・ラッセル著/クラシックジャーナル編集部・北村みちよ・加藤晶訳「エーリヒ・クライバー 信念の指揮者 その生涯」(アルファベータ)P191
すべてが真剣勝負なのである。彼は自分自身にも厳しく、同時に他人にも厳しかった。
1939年6月24日、彼はモンテビデオとブエノスアイレスに向けて出発した。その後11ヶ月の間、家族と離れ離れだった。孤独な中で、エーリヒはいつも自己との闘かっていた。当時の日記には次のようにある。
チャイコフスキーを、さらには(4回演奏して4回ともごちゃごちゃだった)ドヴォルザークを一定の水準に達せるようにするのは至難の業だが、オーケストラはとても意欲的で熱心だ。優秀な非常に若いオーボエ奏者がひとりいて、クラリネットとバスーンも素晴らしい(後者二人は「生粋の」ウィーン人だ—彼らがどんなに喜んでいるか想像がつくだろう)。三人ともパレスチナのオーケストラにいた。昨日私たちは6時間リハーサルを行なったが、今日は演奏会が6時45分からなので、たったの(!)2時間半だ。
(1939年12月15日金曜日)
~同上書P221-222
南米の、お世辞にも上手いとは言えないオーケストラを鍛え上げねばならなかった大変さに音を上げながらも、誰も責めるわけにいかなかった事実。そして、それをおそらく誰にも相談できなかった苦悩。
最近とても興奮しやすくて、リハーサルで自分に腹が立つほどだ。それを乗り越えて私が望むようなやり方で彼らにやってもらうようにするには、最高に張りつめた集中力をもって臨むしかない・・・。
(12月21日木曜日)
~同上書P222
自省力こそが、偉大な芸術の根源の一つであるのかも知れない。
そう、誰のせいでもなく、すべてが自らの心の顕現ゆえに。
エーリヒ・クライバーのチャイコフスキーを聴いた。
・チャイコフスキー:交響曲第6番ロ短調作品74「悲愴」
エーリヒ・クライバー指揮パリ音楽院管弦楽団(1953.10録音)
これほど熱量の高い演奏も稀だろうと思われる。
チャイコフスキーの稀代の名曲が、たった今ここで生まれたかのような生々しさで音化される様子に言葉を失う。どの瞬間も素晴らしいが、何より第3楽章アレグロ・モルト・ヴィヴァーチェの生の爆発から一転、沈潜する終楽章アダージョ・ラメントーソの悲劇性に僕は感動する。熱い、とにかく熱い。
カルロスにとってまったく別の試練が立ちはだかっていた。彼は育ちが良く、友好的で、シャイだった。しかし臆病でも卑劣でもなかった。そしてバレエ音楽が好きでないという気持ちを隠さなかった。彼はチャイコフスキーの《眠りの森の美女》の稽古を嫌々ながら始めた。
~アレクサンダー・ヴェルナー著/喜多尾道冬・広瀬大介訳「カルロス・クライバー ある天才指揮者の伝記 上」(音楽之友社)P164
こんな録音を残されたら息子カルロスもチャイコフスキーをレパートリーに加えられなかったことも頷ける(バレエ音楽が好きだとか嫌いだとか、そういう問題ではなかったのではなかろうか)。
エーリヒ・クライバー指揮パリ音楽院管のチャイコフスキー「悲愴」&第4交響曲を聴いて思ふ