リヒャルト・シュトラウスの父フランツは相当頑固で、厳格な人だったらしい。
家庭での父は、気性が激しく、怒りっぽく、暴君的だった。私の両親は常に誠実な愛と尊敬に支えられていたが、その関係が曇りのない調和を保つためには、穏やかな母の優しさと善良さが必要だった。とはいえ、そのために母の繊細な神経が、どれほど傷ついたか、今となっては推し量る術もない。
~田代櫂著「リヒャルト・シュトラウス—鳴り響く落日」(春秋社)P42
明らかに両親のそれぞれから性質を受け継いだリヒャルトの後年の回想である。
内省的な音調と、同時に激昂する如くの咆哮と、シュトラウスの音楽には人間感情の「酸いも甘いも」を併せのんだ美しさがいつもある。
前年夏からパウリーネの視力が低下し、シュトラウスも重いインフルエンザを患った。7月、夫妻はヴィーンを引き払ってガルミッシュの山荘に戻る。46歳になっていたフランツは、若い頃からの夢だった医学を学ぶために、妻子とともにヴィーンに残った。彼の夢はかなわなかったが、後に次男クリスティアンが医師となって志を継いでいる。
8月11日、ザルツブルク音楽祭で『ホルン協奏曲第2番』を初演する。演奏はベーム指揮ヴィーン・フィル、独奏はゴットフリート・フォン・フライベルクだった。モーツァルトのそれを思わせる伸びやかな楽想で、ここには老齢や戦争の影はみじんもない。独奏パートは困難を極め、一部にナチュラル・ホルン的な奏法が求められる。ヨーゼフ・クリップスが指揮した48年のヴィーン初演では、夭折の天才デニス・ブレインがソロを務めた。
~同上書P367-368
晩年のシュトラウスの作品は、いずれもが透明感のある、無心の音楽だ。
ただし、技術的には相当難しいらしい。
デニス・ブレインが、ヴィーン初演の数年後、サヴァリッシュと録音した名盤を聴いた。
ベートーヴェンもシュトラウスと同様の境遇だったのではなかったか。
負の体験こそが、抑圧こそが、そしてそこから派生する愛情こそが創造の原点になったのだろうと想像する。
ピアノ管楽五重奏曲が初演されたのは1797年4月6日にヤーン・ホールで行なわれたシュパンツィク主催コンサートにおいてであった。そのときのメンバーは把握できないが、シュパンツィクに主導された弦管七重奏曲再演時のメンバーは管楽器全員3人がピアノ管楽五重奏曲再演時の面々と重なっているので、その初演も同じメンバーで行なわれた可能性が強い。彼らは常時共演する仲間だったのである。
~大崎滋生著「ベートーヴェン像再構築2」(春秋社)P414
ブレインにギーゼキング(二人にとってそれぞれ最晩年に当たる)。それだけでもこの録音の価値は高いが、若きベートーヴェンの気概溢れる音楽は、後の傑作群を髣髴とさせるエネルギー満ちる。グラーヴェの序奏を伴なう第1楽章アレグロ・マ・ノン・トロッポにある希望。
そして、柔和で晴朗な、いかにもモーツァルトのような第2楽章ラルゲットの美しさ。
さらに、終楽章(ロンド)アレグレットの、こちらもモーツァルトの影響を多大に受けたであろう音楽の喜び。
ウィーンで功成り名を遂げようとするベートーヴェンの意気込み。
素晴らしいと思う。