何事においても内発的動機が重要だが、中でも関係性による動機づけは善かれ悪しかれ成果を生む大きなきっかけになるものだと思う。要は、良きライヴァルの存在ということである。
1792年、ロンドンのヨーゼフ・ハイドン。
きたるシーズンに向けての前哨戦は、すでに1791年の暮れから始まっていた。プロフェッショナル・コンサートが、ハイドン擁するザロモン・コンサートに対抗するべく、新たな目玉としてかつてのハイドンの弟子、イグナーツ・プレイエル(1757-1834)を招聘したのである。
~池上健一郎著「作曲家◎人と作品 ハイドン」(音楽之友社)P112
師ハイドンにとってもその事実は大きな刺激になったようだ。
《交響曲第94番》を作曲した際にも、プレイエルの影がちらついていたようだ。この交響曲の第2楽章の序盤には、「びっくり」というあだ名の由来になっている有名な箇所がある。シンプルな旋律が静かに続くなか、突然オーケストラ総動員で演奏される和音の一撃である。この驚きの和音については、ハイドンが居眠りをしている会場のご婦人がたの目を覚ますためにお見舞いしたという説が当時から広まっていた。がだが、後日その真意を尋ねられた際には、ハイドンはむしろプレイエル擁するプロフェッショナル・コンサートへの対抗意識があったと打ち明けている。手強い競合相手がいる以上、何か目新しいことをしてロンドンの音楽愛好家に強烈な印象を与えたかった、ということである。その目論見どおり、この楽章の受けはすこぶるよく、初演のときには会場からアンコールの合唱が起こったほどであった。
~同上書P114-115
天才ハイドンにあっても内発的動機たるライヴァル心は常に重要だった。
中でも「革新」を喚起せんとする力の素晴らしさ。巨匠の音楽は不変性を獲得し、永遠だ。
フルトヴェングラーのハイドン。
ドイツ音楽の泰然自若としたシンフォニー形式は大きな弛緩作用、すなわち自己の内面から発する深い調和の能力にもとづいている。それは、他の何ものによっても補いがたいリアルな「能力」であり、ドイツ音楽のゆるぎない世界的価値を決定するものである。
(1946年)
~ヴィルヘルム・フルトヴェングラー/芦津丈夫訳「音楽ノート」(白水社)P52
自己と向き合うことこそドイツ音楽の精神の体現だと彼は言いたいのだろう。
それゆえにモーツァルトもハイドンも、もちろんベートーヴェンも、フルトヴェングラーの手にかかれば滅法深くなる。それは、彼の内なる「信仰」に根差したものだからだ。
フルトヴェングラーは語る。
人間、すべての人間の核心は、神、言うまでもなくさまざまなあり方をしている彼自身の神との宗教的なつながりにある。現代の文明人のみが方式から出発し、神なしの人生を理解する。それゆえ彼は方式の習得にかくも躍起となるのだ。いかに自分の生活が無内容で空虚なものとなっているかに、彼自身は気づいていない。
~同上書P53
それは現代の日本人にも当てはまろう。ハウツーばかりを求める軽薄短小な意識の時代にあって、大事なことに気づかない不幸ほど恐ろしいものはない。なるほど、フルトヴェングラーの音楽は(自在)神とつながる術の一つなのかもしれない。
自在神を刺激するフルトヴェングラーのハイドン。
まだまだクラシック音楽の世界の入口に立ったばかりの僕が最初に購入したレコードの一つがフルトヴェングラーの指揮する「驚愕」交響曲だった。あのとき持った感動は今もって変わることがない。
大病に倒れるフルトヴェングラーの棒が放つ閃光というのか、内在するインスピレーションの炎が、同じ時期に収録された小品含め見事に放射される。
ハイドンの柔和さも、続くオットー・ニコライの序曲もいかにもフルトヴェングラーらしく独墺らしい堅牢な形式の中で、天才的なアーティキュレーションを誇り、自在に飛翔するのだ。何という生命力!
あるいは、シューマンの「マンフレッド」序曲における、相変わらずの仄暗い精神は、死よりも生を想像させる美しいものだ(いかにもシューマンらしい精神崩壊の念をフルトヴェングラーは見事に昇華する)。
続くスメタナの「モルダウ」もあまりに有名な作品だが、フルトヴェングラーの手にかかれば高次の精神性を担保され、美しい一大交響詩として目前に現われる。
生きた作品は、思想や理論によって破壊されることがない。かといって、その生命が思想や理論によって守られるということもありえない。肝要なのは、火花が飛び移り、生きた音楽が生きた聴衆を見出すということである。
(1952年)
~同上書P65
人間の浅はかな知識の中に収まるものではない。
優れた音楽は智慧によって創造されたものだともいえまいか。