
Bright-Side Mixがイギリス生まれのエンジニアであるマーク”スパイク“ステントによるものであり、一方、Dark-Side Mixは、アメリカ生まれのチャド・ブレイクの手になるものだ。
レコーディングにおいて、ミキシングの違い、つまりプロデューサーの役割の大きさがこれほどのものだという良い例だ(同じ作品だが、印象がまるで違う)。国籍の違いは、すなわち個性の違いだ。
スパイクはサウンドそのものを愛し、イメージを組み合わせることを好むゆえに画家に近いタイプだ。チャドはまさしく彫刻家といったタイプで、音響と劇的効果によって旅路を演出する。
(ピーター・ガブリエル)
確かにDark-Side Mixの音響は立体的だ。
僕はよりリアルな音像を保つDark-Side Mixを好む。

アルバム”i/o”にまつわるエピソード。
27年8ヶ月にわたって制作を続けられた”i/o”は、その最初は1995年4月にまで遡る(同時期にアルバムUp”の制作を開始している)。もともと”Up”の続編ということで、2004年にリリースを予定していたが、諸事情で延びに延び、ようやく2023年にリリースされたのが本アルバムだ。

難産のこのアルバムは、ピーター曰く「主に誕生と死について書こうとしたもので、その中間にセックスがある」というコンセプトのうちにある。なるほど、生と死は対立構造の中にあるが、実は一体であることを示唆するのだろう。男女の性についても同様だ。発表までにこれほどまでの時間を要したのは、ただピーターが多忙なだけではなく、むしろそこに天意が働き、20年後の現在でなければ意味・意義がなかったことを教えてくれる。何よりピーター・ガブリエルの音楽そのものがそのことを如実に物語る。
・Peter Gabriel:i/o (Dark-Side Mix) (2023)
ピーターの多彩な才能は、ジェネシスの頃より一層鋭敏になると同時に、すべてを包み込む余裕と度量を獲得する。
スティーヴ・ハケットの回想。
あらゆる点でわたしはピーターに対して大いなる敬愛の念を持ち続けるだろう。わたしをバンドに招き入れた人物であり、わたしが世に出るきっかけを作ってくれた。共に理想主義者で、音楽の新しい見せ方を考えていた。お互いにへんてこなアイデアを発表しあったりもした。最初の頃に交わした会話の中で、わたしはヴァイオリンの弓でギターを弾いてみようかと提案した。ステージで照明がつく前の暗闇の中で、蒸気機関車のようなシュッシュッという音が出せるからという理由だった。
共にジェネシスを抜けてからも連絡は取りあっていた。ピーターという人にも、のちにワールド・ミュージックとして知られることになる音楽への彼の嗜好にも、わたしは親しみを覚えた。1980年代にわたしは自分のアルバム『ティル・ウイ・ハヴ・フェイセス』を彼に送った。リズム三昧の音楽を気に入るはずだと分かっていたからだ。大いに気に入ってくれたんだろう。彼も自ら南米に飛んでパーカッショニストたちとレコーディングしたがったほどだったから。
ピーターの音楽の趣味は幅広かった。ニーナ・シモン、アメリカのバンドのスピリット、ミュージック・コンクレートの大ファンだった。
~スティーヴ・ハケット/上西園誠訳「スティーヴ・ハケット自伝 ジェネシス・イン・マイ・ベッド」(シンコーミュージック・エンタテイメント)P125-126
ピーターは、名声や財産や、そういうものには興味がなかった、というか、いつの間にかなくしたのだろう。1975年、ついに彼はフロントマンであったジェネシスを放棄し、自らの足のみで立ち、自身の興味ある様々なジャンルの音楽を統べ、独自の世界を組み上げていった。
そしてほぼ半世紀、これまで積み上げたものを放出したものがおそらく”i/o”なのである。
人間が我欲で作ったすべてのシステムは近いうち崩壊する。
ピーターはそう予言する。そして、自分はすべての一部に過ぎないと歌う(それは、裏返せばすべてが自分発だということだ)。
さらには、慈心こそがあらゆるものを癒す術であり、誰もがすでにそういう心を持つのだと諭すかのようだ。
Lay the burden down
Lay the weapons down
It takes courage to learn to forgive
To be brave enough to listen
To live and let live
本性の奥底に染みついた余分な心を放下することだ。
「諸君、喝采を! 喜劇は終わった」
(ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン)