あの世とこの世をつなぐ「能舞台」。
三島由紀夫が「近代能楽集」で成し遂げた世界観は、あまりに現実的過ぎる生き方をする現代人に警鐘を鳴らす。
「邯鄲」冒頭の註の中で、彼は次のような指示を繰り出す。
幻影たちは正々堂々とあらわねばならない。
夢の場面は暗すぎてはならない。暗すぎる場面は、観客を明るくなる期待にいそがせて、
現前の事件に注意を集中させない惧れがある。
幻影たちの仮面の使用は演出者の実際上の必要に従って任意である。
~三島由紀夫著「近代能楽集」(新潮文庫)P9
夢か現かわからぬほどの明朗さがすべて。夢も現実も紙一重ということ。
イエスの最高傑作”Close To the Edge”(邦題「危機」)は、ジョン・アンダーソンの形而上的な歌詞に、縦横入り組んで紡がれる音と音との崇高な物語。前奏、そして後奏に小川や鳥たちの囁きのサウンド・エフェクトが使われていることから自然や宇宙との一体、それこそあの世とこの世をつなぐ能を髣髴とさせる。
Down at the end
Round by the corner
Close to the edge
Just by the river
Seasons will pass you by
I get up. I get down
Now that it’s all over and done
Now that you find, now that you’re whole.
身体から抜けた魂は、時間と空間を超越し、転生を繰り返す。
この世のものとは思えぬジョン・アンダーソンの中性的な声質は、イエスの音楽に不可欠。
もちろんスティーヴ・ハウの輝かしいギター・プレイも。
Personnel
Jon Anderson (lead vocals)
Steve Howe (guitar, vocals)
Chris Squire (bass guitar, vocals)
Rick Wakeman (keyboards)
Bill Bruford (drums, percussion)
三島由紀夫は「近代能楽集」のあとがきに次のように書く。
しかし私の近代能楽集は、むしろその意図が逆であって、能楽の自由な空間と時間の処理や、露わな形而上学的主題などを、そのまま現代に生かすために、シテュエーションのほうを現代化したのである。そのためには、謡曲のうちから、「綾の鼓」「邯鄲」などの主題の明確なもの、観阿弥作のポレミックな面白味を持った「卒塔婆小町」のようなもの、情念の純粋度の高い「葵上」「班女」のようなものが、選ばれねばならなかった。
~同上書P253
コーダにおける苛烈な加速は、聴く者を情動する。
感覚的な歌詞は残念ながら和訳不能。原語でニュアンスを感じるしかない。
2曲目の”And You And I”も然り。
And you and I climb, crossing the shapes of the morning
And you and I reach over the sun for the river
And you and I climb clearer, towards the movement
And you and I called over valleys of endless seas
上昇する音響にあって歌詞は明らかに分断される現実を拒絶する。
世界はもともとひとつだと。
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>身体から抜けた魂は、時間と空間を超越し、転生を繰り返す。
輪廻転生などありません。
・・・・・我が国には今も、死者の御霊を神として祀り崇敬の対象とする文化・伝統が残されています。日本人は昔から、死者の御霊はこの国土に永遠に留まり、子孫を見守ってくれると信じてきました。今も日本の家庭で祖先の御霊が「家庭の守り神」として大切にされているのは、こうした伝統的な考えが神道の信仰とともに日本人に受け継がれているからです。そして同様に、日本人は家庭という共同体に限らず、地域社会や国家という共同体にとって大切な働きをした死者の御霊を、地域社会や国家の守り神(神霊)と考え大切にしてきました。靖国神社や全国にある護国神社は、そうした日本固有の文化実例の一つということができるでしょう。・・・・・・靖国神社 HPより
http://www.yasukuni.or.jp/history/detail.html
>雅之様
誰も確認したことがないのですから、こればっかりはあるもないも証明できませんね。
ちなみに、僕はあると信じております。
再び「哲人」の言葉が沁みてきました(笑)。
そしてある人は、内なる声に従って歩むことをやめてしまう。竿から飛び降りてしまう。そこに真理があるのか? わたしにはわかりません。あるのかもしれないし、ないのかもしれない。ただ、歩みを止めて竿の途中で飛び降りることを、わたしは「宗教」と呼びます。哲学とは、永遠に歩き続けることなのです。そこに神がいるかどうかは、関係ありません。
幸せになる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教えII
“岸見 一郎” – “古賀 史健” (ダイヤモンド社 ) P29-30
https://www.amazon.co.jp/%E5%B9%B8%E3%81%9B%E3%81%AB%E3%81%AA%E3%82%8B%E5%8B%87%E6%B0%97-%E8%87%AA%E5%B7%B1%E5%95%93%E7%99%BA%E3%81%AE%E6%BA%90%E6%B5%81-%E3%82%A2%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%BC-%E3%81%AE%E6%95%99%E3%81%88II-%E5%B2%B8%E8%A6%8B-%E4%B8%80%E9%83%8E/dp/4478066116/ref=sr_1_2?s=books&ie=UTF8&qid=1487675868&sr=1-2&keywords=%E5%AB%8C%E3%82%8F%E3%82%8C%E3%82%8B%E5%8B%87%E6%B0%97
>雅之様
ここのところ思います。
歩き続けるということは答が見つからないからで、その意味では哲学は永遠のようでいて堂々巡りなのかもと。
一方、竿の途中で飛び降りるのは答が見つかったからで、それは決して否定的なものではないのかもと。
ただし、特定の団体に入ったからといって答が見つかるものではありません。
それこそ人為的な団体に答があるとは思えません。おそらく答は各人の内に在るのでしょう。
だからこそ信仰を続けることが大切なのだと僕は思うのです。