
「宗教と神学の違いは何でしょう?」私はたずねた。
「私の考えでは、神学は人の手になるものだが、宗教は神の手による。たとえば、肉体の死後の生命に対するあの普遍的な信仰は宗教だが、信条や教理はすべて神学だ。中世を通して教会が行った異端審問やあらゆる迫害は、神学と悪魔信仰には関係があることを証明した。ゲーテはこのことを理解しており、ファウストの独白の場面で、彼がどのように”Religion”(「宗教」)ではなく、”Theologie”(「神学」)という言葉を用いているか、私はいつも称賛してきた。」
~アーサー・M・エーブル著/吉田幸弘訳「大作曲家が語る音楽の創造と霊感」(出版館ブック・クラブ)P99-100
ここでいう宗教は厳密には「道」のことであり、「神学」と呼ばれているものは宗教のことだと今僕は解釈する。いずれにせよ文豪ゲーテも、そしてヨハネス・ブラームスもそのことをわかっていた。ブラームスは、神の啓示をキャッチできる人間業を超えたセンスによって文学者も音楽家も芸術作品を世に送り出しているのだというのである。
続けて、バッハやベートーヴェン、そしてモーツァルトが超越的な啓示を受け、作曲をしていたに違いないというヨアヒムの問いに対し、ブラームスは次のように答えている。
「バッハやベートーヴェン、モーツァルトは、私よりも多く霊感を受けていたのだ、ヨーゼフ。この3人は皆、何よりもよどみなく自然に流れ出るような旋律の流れを持っていた。シューベルトもそうだ。だが、私にはそれがなかった」。
~同上書P101
20代前半頃まで僕は内側を向いた、流れの悪い分厚い音響を特徴としたブラームスの音楽が苦手だった。それは、本人がいうところの(謙遜だと思うが)「よどみなく自然に流れ出るような旋律の流れ」を持っていなかったことが原因の一つであっただろうことが今なら理解できる。
作曲者本人が自覚する、ベートーヴェンやモーツァルト、シューベルトに劣るとする流麗な旋律、それを巧みにコントロールし、聴衆に聴かせようとしたのがエレーヌ・グリモーだ。
男性的なブラームスの音楽が、女性性を基調にした流麗な音楽へと変化する、その妙技に僕はあらためて感動する。
・ブラームス:・ピアノ協奏曲第1番ニ短調作品15
アンドリス・ネルソンス指揮バイエルン放送交響楽団(2012.4Live)
グリモーがおそらくもっとも脂が乗り、もっとも輝いていた(?)時期のライヴ録音。
15年前の、ザンデルリンクのもとで演奏した録音も素晴らしい演奏だが、より主体性を獲得したグリモーのピアノの音は一層力強く、同時に極めて繊細だ。

初めて聴いたときからこの曲は私を魅了しました。霊的、熱烈、そして浪漫、そういうもの自体が一つの宇宙として形成され、まるでそのパッションが一気に爆発したかのように書かれています。ブラームスがこの曲を作曲したとき、彼は20代半ばで、ほとんど「私小説的」にとても生き生きと書かれているのです。
(エレーヌ・グリモー)
最美は、ゆったりと祈るように、想いを込めて奏される第2楽章アダージョの感傷。
グリモーは語る。
第1楽章(マエストーソ—ポコ・ピウ・モデラート)はロベルト・シューマンの苦悩に満ちた人生の肖像です。また第2楽章(アダージョ)は永遠に叶うことのないクララ・シューマンへの愛の表現、祈りであり、第3楽章ロンド(アレグロ・ノン・トロッポ)はリズムと活力に満ち、一種の復活を感じさせます。この協奏曲を演奏することは、若きブラームスの人生のドラマに直接没入することです。
文字通りブラームスの天才と同期した演奏を久しぶりに聴いて、僕は歓喜した。

