
標題音楽が生まれるきっかけとでもいうのか、歴史的にそれが正しいのかどうかわからないが、記述を見て、なるほどそういうこともあるのだろうと膝を打った。
18世紀フランスの哲学的・文学的合理主義が音楽に存在意義を認めたのは、言語によるテキストを伴うという条件で、音楽劇のみに特権的地位を与えた。このような合理主義的観点に立つと、器楽音楽は模倣の潜在能力をことごとく否定されるので、美的価値を持てないことになる。
そのような地位に達するためには、調和を実現するテキストが必要であった。テキストがなければ、音楽の技でなにを模倣すればよいのか? それが合理主義の理論が自らに提起した疑問である。もし、なにも模倣しないとすれば、音楽のめざすところは感覚である。しかし、感覚の言語は非合理的であり、つまり、意味を持たない。
「音楽とイメージ—標題コンチェルト」
~ジャンフランコ・フォルミケッティ/大矢タカヤス訳「ヴィヴァルディの生涯 ヴェネツィア、そしてヴァイオリンを抱えた司祭」(三元社)P130
中世から近代に至る中で、人間はあらゆる事象に説明を求めたのだと思う。
そもそも感覚的である音楽を言語化する必要などなかったはずであり、非合理でまったく問題なかったはずなのだから。
このような思考傾向がフランスからイタリアに入り、音楽家たちはこの、文句なしの難問を解くために、のちに模倣の概念に取り入れられる理論、自然は音によって模倣されうるという理論に助けを求めた。このようにして標題音楽が生まれたのである。音楽作品に描写的なタイトルが与えられ始め、音楽と表現されるべき主題が関連づけられるようになった。そんなときにフランスで、作曲家のマラン・マレが迷宮をテーマに、フランソワ・クープランによって表現されたものを下敷きにして、調性が絶えず変わり、音域を即興的に変えられる作品を出した。同じレアリスムからの要請に応えてこのマレは、おそらく自分が直接体験した膀胱結石の手術を音楽で表現することもできた。
「音楽とイメージ—標題コンチェルト」
~同上書P130
自然の叡智には何ものも敵わない。
そんな中、音楽家は表現の幅を広げる一つの手段として「標題音楽」を生み出した。聖から俗へ、このあたりから音楽は一層人間的なものへと近づいて行ったのだろうと思われる。
何と若きアーノンクールがヴィオールを弾くマラン・マレ(1656-1728)を聴く。
これぞ「標題音楽」の走入というのかどうかわからないが、「聖ジュヌヴィエーヴ・デュ・モン教会の鐘」は、冒頭で(ヴィオラ・ダ・ガンバとクラヴサンによって)鐘の音が模され、その上にヴァイオリンによって旋律が奏でられる。そこには、鐘の音の描写だけでなく、祈りや教会に行き、鐘の音を聴く人々の生活までもが描かれており、何とも哀感に満ちる音楽が心に沁みる。
1692年刊行の「三重奏の曲集(6組曲)」から組曲第1番ハ長調は前奏曲と7つの舞曲から構成される。楽曲を聴いて思うのは、若きアーノンクールの演奏が決して尖鋭多岐な解釈でなく、実に慈しみに溢れる表現だということ。音楽もやはり表現される心のあり方をいかに捉えられるかだとつくづく思う。
また、1711年刊行の「ヴィオール曲集第3巻」序文で、マレは「ヴィオールと通奏低音のために作曲されているが、オルガン、クラヴサン、ヴィオール、ギター、フルート、リコーダー、オーボエなど様々な楽器で演奏可能」だと謳っているが、収録される組曲第4番ニ長調は、快活な音調で、前奏曲に続き11もの舞曲が喜びに満ち、開放的に表現される。
サン・ジェルマン・ロクセロワ教会の合唱団員になり、リュリに作曲を学び、ヴィオラ・ダ・ガンバ奏者サント=コロンブに師事。(ルイ14世治世)宮廷ヴィオール奏者として知られ、ヴィオールを含む多くの合奏曲を作曲。
~クラシック音楽作品名辞典(改訂版)(三省堂)P890
※この音盤など10年以上前に新宿塔の投売籠で見つけ、仕入れたものだが、何と500円ほどだった。今や塔も縮小されそもそも投売籠が消滅してしまったことが残念だ。

それまでの〝巨匠“指揮者に傾倒心酔していた愛好家に、喧嘩を売るような挑発的な解釈をなさっていた指揮者の、珍しい録音を御紹介いただき、有り難うございます。
確かこのお方、フルトヴェングラーの妨害で、ウィーン・フィルの指揮台に立てなかったカラヤンが、ウィーン交響楽団を振っておいでの際に、同オケのチェロ・パートのメンバーだった御経験がお有りだったとか‥。
>タカオカタクヤ様
はい、そうでしたね。ウィーン交響楽団在籍中にすでにウィーン・コンツェントゥス・ムジクスを結成しているので相当革新的なお方だったのだと想像します。
時代がアーノンクールに追いつくのに相当時間を要したと思います。