
作曲者の自作自演であり、また彼自身がピアノの名手であるのにもかかわらず、技術よりも音楽に内在する抒情と軽快さが表に見えている点が実に興味深い。
もちろんそれは否定的な意味ではない。これこそ作曲者であるがゆえの表現力であり、また作品を相応に表現できる能力をもっていたからこその名演奏なのだと痛感する。
一層面白いのは、ここではクリュイタンスがあくまで伴奏者に徹しているというところだ。
(リュドヴィク・ヴァイアンの超絶技巧のトランペットも聴きどころ!)
これまでいくつも音盤で触れている作品であるにもかかわらず、この録音を聴いて実に新鮮な感銘を受けた。ほとんど初めて聴いた曲であるかのような衝撃(若きショスタコ―ヴィチの果敢な挑戦が手に取るように見える)。
初演は、1933年10月15日、レニングラードのフィルハーモニーで、作曲者のピアノ、フリッツ・シュティードリー指揮レニングラード・フィルハーモニーによって行われた。ムラヴィンスキーが実権を握る以前のことである。
おそらくこの時代からレニングラード・フィルのコンサートの様子は他を冠絶していて、特別な雰囲気であっただろうことがわかる。
お偉ら方たちの特別席にはしかめっ面をした首席指揮者フリッツ・シュティードリーがいた。彼の隣にはヘンリー三世風のヤギ髭の初老の芸術監督アレクサンドル・オソフスキーがいた。ワーグナーのオペラに出てくるドラマティック・テノールの貴族のようなイワン・エルショフも、ゆったりと腰掛けていた。縁の太い眼鏡が目立つ若く内気なショスタコーヴィチは、神経質に指と腕をぴくぴく動かせながら、ひとときもじっとしていられないようだった。若い作曲家の隣には、丸顔で赤ら顔の指揮者アレクサンドル・ガウクが自信あり気なポーズをとっていた。正面桟敷席に現われたのは、あたかも急いで仕立て屋から出てきたかのように身体に合っていないスーツを、ややぶざまに着たイワン・ソレルチンスキーの背の高い姿だった。楽屋控え室からは何人かの年配の人々が現われた。彼らはコンサートのパトロンである総裁アレクサンドル・カルビンスキーに率いられた、教授や科学アカデミーの学者たちである。五列の座席のあるホールの中心部には、はげ頭を隠すように灰色の髪を後ろにはね上げた元伯爵アレクセイ・トルストイの大きな姿があった。一階正面席にいたもうひとりの著名人は、プーシキン劇場の骨ばって痩せた俳優ニコライ・チェルカーソフだった。彼の右側には、エルミタージュ芸術院総裁イサーク・オルベリがいた。会場は有名な俳優たちや作家たちで満員だった。古き良きペテルブルクの「えりぬきのエリートたち」にまじって、新しいレニングラードの芸術や科学をしょって立つ若者たちの姿がそこにあった。これが1930年代の定期コンサートでの通常のレニングラード・フィルの聴衆だった。(アレクサンドル・グルモフ、1977)
~ グレゴール・タシー著/天羽健三訳「ムラヴィンスキー高貴なる指揮者」(アルファベータ)P78-79
グルモフの描写が正しいドキュメントであるのかどうか僕は知らない。
しかし、当時のフィルハーモニーの様子はおそらくそんな雰囲気の中にあったのだろうことが容易に想像できる。(ショスタコーヴィチの様子を表現するにあたり「神経質に指と腕をぴくぴく動かせながら、ひとときもじっとしていられないよう」という言い回しがいかにもで、膝を打つ)

交響曲第1番のときとほとんど同様のイディオムが駆使された、作曲家でありピアニストであるドミトリー・ショスタコーヴィチの真骨頂。旋律も豊か、生命力に溢れる高貴な名曲だとつくづく思う。
