ヴァント指揮ケルン放送響 ブルックナー 交響曲第7番ホ長調(ハース版)(1980.1.18録音)

アントン・ブルックナーの不動の信仰は、浮き沈みの多い人生にあって常に変わらなかった。伝記作家ハンス・フェルディナント・レートリッヒの証言によると、「ブルックナーは、作曲や演奏を問わず音楽表現のすべてを敬虔な信仰心で決定した、おそらく彼の世紀で唯一の大作曲家といえる」。他の伝記作家はこう書いている。「彼の心の核心をなすものは敬虔の念であった。彼は自分の音楽の中で神を求めていた。神ご自身が彼の目標だった」。さらに別の伝記作家は、次の点に触れている。「目を瞠るような回心もない代わり、生涯のどの段階でも信仰の危機さえ見られなかった。彼の全存在は、静かに神と交わる一つの人格を現している。その信仰は涙もろいところがまるでなく、堅固で男らしいものだった」。
パトリック・カヴァノー著/吉田幸弘訳「大作曲家の信仰と音楽」(教文館)P162

「不動の信仰」というのがすべて。
しかしながら、ここでもうひとつ考えなければならないことは、僕たちは皆泥沼にまみれた俗世間の中に生きているということだ。ブルックナーの信仰はあくまで外にあったものだと思う。本来信仰とは自身の内なる佛と直結するものだ。しかし、おそらく19世紀の巨匠にはその認識はなかった。

ギュンター・ヴァントのブルックナー演奏の「容姿(かたち)」は基本的に変わらない。
(巨匠は最初からブルックナーの本質を、根源をつかめていたのだと思う。それは聖俗相まみえる崇高でありながら人間臭い音響だ)
1970年代から80年代初頭にかけてのケルン放送交響楽団との交響曲全集に触れて思うのは、この時点でヴァントのブルックナー解釈の原点はでき上っていたということだ。
全集の中でも比較的後半に録音された第7番ホ長調は実に余裕の感じられるもので、朝比奈同様ハース版による演奏は、自然体で比較的速めのテンポを踏襲しつつブルックナーの本質・本懐を押さえた解釈。それは、45年を経た今も実に安心感のある、これぞブルックナーという名演奏だ。

ロベルト・ハース版の静謐さと柔らかさを僕は好む。
第2楽章アダージョのクライマックスでの金管の咆哮や打楽器の轟音があるのかないのか、それだけで音楽の様相は180度変わる。ブルックナーは改訂に改訂を重ね、結局これらの楽器を「無効」にしたのだからやっぱり最後の意志はハース版によるものなのだと思う。

・ブルックナー:交響曲第7番ホ長調(ハース版)
ギュンター・ヴァント指揮ケルン放送交響楽団(1980.1.18録音)

美しい音楽だと思う。そして素晴らしい演奏だと思う。
全体最適、バランス感を欠くといわれる後半2つの楽章も実に音楽的。

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