
誰のどんな演奏でもこの曲は大いに盛り上がり、聴衆に感動を与えるように作られている。
しかしながら、実際のところは初演は好評だったが、専門家からは不評を買ったという。そのことに即座に反応した作曲家はフォン・メック夫人宛書簡で次のように書いた。
「あの中には何か嫌なものがあります。大袈裟に飾った色彩があります。人々が本能的に感じるような拵えもの的な不誠実さがあります」
(1888年11月)
苦悩からの解放、すなわち闇から光へというベートーヴェン的コンセプトの顕著な交響曲は、聴いていて心が鼓舞される側面を持つ。本人が「不誠実」などと自身を揶揄したのは、公衆へのポーズであり、メック夫人への言い訳ではなかったかとすら思ったりする。
フルトヴェングラーのチャイコフスキーを聴いた。
交響曲第5番は、巨匠にとってコンセプトといい、音楽の作りといい、格好の作品だったのではなかろうか。
しかし、残された唯一の録音に対して世間の評価は決して芳しくない。
それはおそらく、宇野功芳さんがかつてけちょんけちょんに貶したレコードだったからだ。
(個人的にも少年時代の僕は宇野さんの批評にかなり左右された口だから、実に長い間この実況録音を無視してきた)(今となっては実に苦々しい想い出だ)
フルトヴェングラーの解釈ゆえ、もちろん一筋縄ではいかない。
テンポの伸縮は大きく、間の取り方やリタルダンドなど、聴いていてはっとさせられるような瞬間が多発する。終楽章には大きなカットがあるが、メンゲルベルクのそれに比較するとあまり気にならないのだから、巨匠の独断的解釈だとはいえ許せる範囲だ。(終楽章コーダ直前の、聴衆の拍手はご愛嬌)

・チャイコフスキー:交響曲第5番ホ短調作品64
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮RAIトリノ放送交響楽団(1952.6.6Live)
繰り返し聴くことで新たな発見がある興味深い、かつ素晴らしい演奏。
やっぱり傑作の名演奏だ。
交響曲は演奏されるたびに好評を得、最後はチャイコフスキー自身も評価するようになったという。ちなみにソ連では、エフゲニー・ムラヴィンスキーがこの交響曲第5番に関して、間違いなくフルトヴェングラーの演奏を注視し、興味を持ち、敬意を払っていたそうだ。ムラヴィンスキーの解釈とフルトヴェングラーの解釈とでは、外見は水と油のように見えなくもないが、作品に通底する「心」は同じものだと僕は思う。





宇野功芳さん、お懐かしいですね~(笑)。私も《ブルーノ・ワルター/レコードによる演奏の歩み》、《フルトヴェングラーの名盤》の2冊、若い時分にむさぼり読んだクチで、ございます。
当時はLP盤が主流でしたので、この演奏を日本コロムビアのOP規格で初出の際も¥2200の価格でしたので、実際に聴いたのは、Мemoriesと言うレーベルのCD2枚組みで、VPOとの《第4》及びBPOとの《悲愴》で出されたおりでした。実際に耳にした印象は、『何だ、そんなに酷い演奏じゃ、無いよ。』と言うものでした。第2楽章の深い歌は、聴きづらい録音状態を突き抜けて、しみじみと心に訴えかけて来るものでした。
やはり、時間とお金の持ち合わせと興味のある限り、他人様の御意見にあまり頼らず、自身で体験してみる事が肝心と、思いました。
>タカオカタクヤ様
>《ブルーノ・ワルター/レコードによる演奏の歩み》、《フルトヴェングラーの名盤》の2冊、若い時分にむさぼり読んだクチ
まったく僕も同じ道を歩んできました。(笑)
>他人様の御意見にあまり頼らず、自身で体験してみる事が肝心
まったくおっしゃる通りです。
しかし、宇野さんには感謝もしております。少なくともあの頃、クラシック音楽の愉しさを教えていただいたのは宇野さんのお陰だと思うからです。