
ホール入口には、演奏者から演奏順の変更の告知。
芸術的観点から、ヒンデミットを先に、バッハのシャコンヌを後にと、順番を逆にするのだとか。やはり、あらゆる音楽の原点としてのバッハを尊重したのだろうか、それとも、単純にシャコンヌという音楽の、無限大と無限小を併せ持つ、古今東西随一の傑作のひとつに対する崇敬の念がそうさせたのか、いずれにせよ1時間に満たない、それでいて充実の、重みのあるリサイタルだった。
パウル・ヒンデミットの無伴奏は、バッハに影響を受けてのものであることは間違いない。
しかし、そこには彼らしい革新と挑戦が常にあった。
ヒンデミットは、ふくれた顔をしてマシンガンのように話す実務的な男で、その生い立ちは貴族やブルジョワには関わりがなかった。小さな町の肉体労働者の息子で、奨学金の全面的な援助を得てフランクフルトのホーホ音楽院に出席した。戦後の最初の数カ月が過ぎた頃、弦楽器のための6つのソナタの連作を完成させて、ドイツ・ロマン主義からの決別を宣言する。ドビュッシーやラヴェルの影響がいたるところに見られる簡潔につくられた作品である。それまでの50年間、ドイツの作曲家でこのような簡素な優美さを備えた音楽を書いた者はほとんどいなかった。この若い作曲家はまたロマン主義以前の伝統、ルネサンスやバロックの荘厳な様式にも深い愛情を示したが、それらを容赦なく近代化してみせた。
~アレックス・ロス著/柿沼敏江訳「20世紀を語る音楽1」(みすず書房)P192
その最たる例の一つが、無伴奏ヴィオラ・ソナタにあろう。
近衞剛大の演奏は、芯の太い、実によく鳴る、深い音がした。
それに一方で、20世紀的な前衛性を秘めながら、バロックの伝統たる舞踊の要素も上手に表現されていた。音楽とは喜びであり、文字通り「楽しみ」であることを静かに、しかし真剣に聴衆に語りかける熱さに感激した。何より終楽章パッサカリアにバッハの木霊を見、本人が語るように「連続性という本質」に感化された。なるほど、ヒンデミットとバッハの組み合わせは、無限に変化する一つの形を探求する方法なんだと僕は実感した。
ランチタイムコンサートVol.140
近衞剛大 ヴィオラの大器、無伴奏に挑む
2026年7月27日(月)12:15開演
トッパンホール
・ヒンデミット:無伴奏ヴィオラ・ソナタ作品11-5
・J.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番ニ短調BWV1004よりシャコンヌ
近衞剛大(ヴィオラ)
バッハのシャコンヌは難しい。
技術的な難しさはもちろんだが、聴衆の心に響かせる深みのある表現を成すのにおそらく相応の人生経験が必要になろうかと思う。
今回はヴィオラ編曲版での演奏だったせいか、いぶし銀の深みのある音が自ずと発せられており、なるほどこちらも本人が語るように「重厚感、声楽的要素の強調、あるいはその親密感」において確かに優れた演奏だった。
単独で舞台に出、一人で脚光を浴びるプレッシャーとは無縁のような、余裕のある無伴奏にその出自に違わず間違いなく大物であることを思った。
曾祖父に近衛秀麿を持つ近衞は現在、ベルリン・フィルの団員であり、15歳のときには今井信子にも師事したという。将来が一層楽しみな逸材だ。
