
(1945年)12月6日、秀麿は7年3か月ぶりに祖国の土を踏んだ。
それから数日経った、12月15日の夜。秀麿は東京杉並にある兄、文麿の別邸、「荻外荘」を訪れていた。7年3か月ぶりの兄弟の再会である。秀麿がこの日、杉並を訪問したのには理由があった。それは翌日が、GHQからの命令により、A級戦犯の容疑をかけられた兄が巣鴨へ出頭する最終期限の日だったからだ。このため、荻外荘には大勢の客がひっきりなしに訪れて騒然としていた。皆、口にこそ出さないものの、文麿が出頭期限の前日に自害するのではないかと心配し、早まったことをしないよう見張るために来ていたのだった。もちろん、秀麿にもその気持ちがなかったわけではない。
夜も更け、兄弟はようやく二人だけになった。文麿と秀麿は、互いに離れた場所で過ごしたこれまでの時間を埋めるかのように会話に興じていた。そして自然に、日本とアメリカの開戦の話になっていく。政治家の兄には、この戦争を未然に防げなかったことに大いなる未練があった。血を分けた兄弟として、また短い時間ではあったものの、父・近衞霞山こと篤麿の遺志を汲んだ者として、秀麿にも失意の底にいる兄の心情が痛いほど伝わってきた。長い沈黙の後、文麿は万感の意を込めて秀麿に告げる。
「お前は音楽を選んでよかったなぁ・・・」
それが秀麿の記憶に残された、兄の最後の言葉だった。
~菅野冬樹著「戦火のマエストロ近衞秀麿」(NHK出版)P262-263
兄弟といえどもって生まれた宿命の違い。
文麿は、自決前日(すなわち12月15日)に遺書を口述筆記させたらしいが、内容は「自分は政治上多くの過ちを犯してきたが、戦犯として裁かれなければならないことに耐えられない・・・僕の志は知る人ぞ知る」というものだったという。
(近衛文麿の志は確かに本物だったことを後世が証明している)
弟の秀麿も、また後の首相吉田茂も文麿の自決を防げなかったことを悔やんだが、それも運命であり、仕方がない。
文麿がいみじくも最後の言葉として弟に残した「音楽を選んでよかったなぁ・・・」という言葉が重い。
近衞秀麿は、戦後、京都大学交響楽団を合宿にまで参加し、鍛え上げたという。
さすがに当時のアマチュア・オーケストラの演奏レベルは何とも評価し難い、厳しいものがあるが、創出された音楽の熱さという点では「さすが!」と思わせる瞬間が多出する。
第96回定期公演の記録を聴いた。
興味深いのは、近衞版を使用してのベートーヴェン。
耳で聴く限りにおいて原典版との差異はほぼ見当つかない。
(それくらいに近衞の編曲が優れているのだといえよう)
金子建志さんの分析によると以下の通り。
第1楽章にピッコロが使われていたりするが、流石にマーラーのようにチューバを加えるような過激な編曲は行っていない。基本的にはワインガルトナーが著書で述べているような、近代オーケストラに対応した衣装替えで、無弁の金管が故に生じた凹凸を滑らかに直したり、ベートーヴェンが避けていたヴァイオリンの高音を、オクターヴ上に上げたり、といった編曲で、フルトヴェングラーやトスカニーニ等の範疇に含まれると言って良いだろう。それは、晩年に残した読響との録音でも確かめることが出来る。
「金子建志「近衞秀麿の改訂作業—ベートーヴェン:交響曲第2番を中心に—」
~TBRCD0151/0154-2ライナーノーツ
近衞は、ワインガルトナーの影響から、華族出という身分ということもあろうか、とても格調高い解釈を常としていたが、京大オケとの演奏においては、学生たちの必死の形相とエネルギーが塗り替えてしまった結果、図らずもフルトヴェングラー的な生々しいドラマティズムが前景化しているように僕は思う(もちろん造形そのものは異なるが)。
近衞は、ワインガルトナー的な即物主義をリスペクトしつつも、ベルリンでリアルタイムにフルトヴェングラーの全盛期を体験し、彼の巨匠からも直接影響を受けていることも影響しているだろう。学生たちが必死に食らいついてくる中で、近衞の側も、理知的なコントロールから一歩踏み込み、彼らのパッションを煽り、ドライヴしていくような指揮へ自然とシフトせざるを得なかったのではなかろうか(血が騒いだ?)。

