「ディアベリ変奏曲」が、ベートーヴェンのピアノ音楽の到達点であり、聖なる世界についに足を踏み入れた晩年の哲学的境地であるとするなら、そのプロトタイプが「創作主題による32の変奏曲ハ短調WoO80」であろう。「レオノーレ」が生れ、いよいよ「傑作の森」に突入しようとしていたあの頃に創造された音楽の、わずか10分強という時間の中で繰り広げられる人生の浮き沈みと機微。
やはり30歳を超えたあたりでベートーヴェンは間違いなく悟りを得たのだろうと思う。
音楽は、一切の智慧・一切の哲学よりもさらに高い啓示である。・・・私の音楽の意味をつかみ得た人は、他の人々がひきずっているあらゆる悲惨から脱却するに相違ない。
(1810年、ベッティーナに)
~ロマン・ロラン著/片山敏彦訳「ベートーヴェンの生涯」(岩波文庫)P135
ベートーヴェンは人々を解放するために音楽を書いた、否、書かされた。
なぜ私は作曲するか?―(私は名声のために作曲しようとは考えなかった)私が心の中に持っているものが外へ出なければならないのだ。私が作曲するのはそのためである。
(ゲーリングに)
~同上書P136
ほとんど神の代弁者の如く。それならば彼が後の世に「楽聖」と呼ばれたことも納得できるというもの。
実際のところ、変奏曲WoO80は、宿命のハ短調という調性を持ちながら、ただ悲愴で険しい音調を示すのでなく、32もの変奏を通して生の喜びまでをも表現する。交響曲第9番で採用したシラーの頌歌にある真意を言葉なくして表現したような、それほどの凝縮された崇高な世界がある。
内田光子のベートーヴェンは、実に透明で美しい。
クルト・ザンデルリンクとの変ホ長調協奏曲「皇帝」は人後に落ちない名演だけれど、僕は「皇帝」よりも、この小さなハ短調変奏曲に一層感動する。
ベートーヴェン:
・ピアノ協奏曲第5番変ホ長調作品73「皇帝」
・創作主題による32の変奏曲ハ短調WoO80
内田光子(ピアノ)
クルト・ザンデルリンク指揮バイエルン放送交響楽団(1998.11録音)
どこか懐かしみを帯びた短い主題。
すべての変奏が切れ目なく、自然の流れの中で奏でられる。それこそがベートーヴェンの意志なのだ。
特に、長調に変容する第12変奏から第14変奏にかけての湧き立つ愛情と音楽の可憐な姿に神の境地を思う。
ちなみに、1806年頃のベートーヴェンを別の角度から探ってみると面白い。
この年の夏はめずらしくウィーンにとどまって創作を続けている。しかし、そこには5月25日に、自分の反対を押し切って室内装飾屋の娘ヨハンナ・ライスと結婚した弟カールとの一時的不和にも原因があったと思われる。義妹ヨハンナとは生涯折り合いが悪く、またのちにはその息子である甥カール(1806年9月4日生れ)の後見問題をめぐって、長い裁判闘争をくり返すことにさえなる。しかし実弟カールに対しては父親的愛情さえもっていたので、この結婚を不快に思うと同時にカールが心配でならなかったのである。
~平野昭著「カラー版作曲家の生涯―ベートーヴェン」(新潮文庫)P82
当時彼がいかにも現実的な、下世話な苦悩の最中にいたかがわかる。
おそらく作曲活動だけがベートーヴェンにとって些末から逃れる手段であり、その俗的な日常があったからこそその裏側にある聖なる側面にいよいよ到達できたのだと想像するのだ。
「霊」が私に語りかけて、それが私に口授しているときに、愚にもつかぬヴァイオリンのことを私が考えるなぞと君は思っているのですか?
~ロマン・ロラン著/片山敏彦訳「ベートーヴェンの生涯」(岩波文庫)P136
これぞ「神との対話」なり。
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人類全体の平和は何故実現しないのか。
突き詰めれば、「貧困」こそが諸悪の根源なのではないでしょうか?
ベートーヴェンを愛好する人々が一部の特権階級であり続ける限り、ベートーヴェンが願ったような真の世界平和はやってこないような気がします。
最近、私はそのパラドックスが妙に気になって、少しベートーヴェンから遠ざかっています。
>雅之様
>「貧困」こそが諸悪の根源
つまり、資本主義の限界であるとも考えられますよね。システムそのものがやっぱり問題なのだと思います(こればっかりはどうにもなりませんが)。
ベートーヴェンが革命を起こそうとしたのも所詮音楽上の話で、システムそのものにまでは当然ながら影響を与えられなかったわけです。
>最近、私はそのパラドックスが妙に気になって
ああ、何かわかるような・・・。とはいえ、能天気な僕はベートーヴェンから遠ざかることはできません。(笑)