疲れた夜に・・・

このところの流れから、マーラーが生前録音したピアノロールの自作自演盤を採り上げようと思っていた。午後、2,3回繰り返し聴きながら事務作業をし、オフィスを出た。
社に戻ったのは23時前。慣れない脳の筋肉を使いまくったものだからさすがに疲れた。日常、人前で話すことが多い僕も、人の話を聞いたり、頭を使ってワークをすることはあまりなく、最近は新しい情報やスキルを学ぶためにそういう機会を多く持っているが、やっぱり相当の緊張が強いられるのだろう。途中意識が飛んで「聞いていなかったり」することが幾度かあった。コミュニケーションにおいて「傾聴」の重要性は何度も説くが、実際やるとなると難しい・・・。

午前中は銀座線「三越前」にあるとある企業の会議室でEQの勉強会。途中オフィスに戻り、夜は有楽町線「新富町」でアクティブブレインの勉強会。パンクしそうな頭を冷やすため、あらためてマーラーでも聴きながらブログでも書こうと開いてみると・・・。
雅之さんから昨日の記事にコメントを頂いていた。何と件のピアノロールとメンデルスゾーンの「葬送行進曲」の話題。さすがに365日中350日くらいはブログ上でやり取りしている仲なので(笑)、同じような思考を持つことは当然といえば当然かもしれないが、やられた!という思い・・・。まぁ、よし。ありがとうございます。

ところで、アクティブブレインの勉強会では、次回までに自身の講師スキルを向上させるためにどのように過ごすかを計画する。本日の課題は「イメージと感受性」。ならばブログを「イメージング」のエクササイズの場として捉えよう、ということで、今日は今の体調、フィーリングを聴いた音楽に乗せて表現することにする。

The Beatles:A Hard Day’s Night

It’s been a hard day’s night
And I’ve been working like a dog
It’s been a hard day’s night
I should be sleeping like a log

ある意味全盛期のビートルズの音楽は勢いがある。それに普遍的。今は、まるで”A Hard Day’s Night”の歌詞のような気分。相当頭を使った日はとにかく何も考えず眠りたい。それを「犬のように」、そして「丸太のように」と表現したJohnはやっぱり天才。思考が絵として描かれ、しかもそれが言葉としてスッと出てくるところに類稀な才能が感じられる。

2日続けてThe Beatlesを聴くとは思わなかった(笑)。
明日はまた「真夏の夜の夢」について書こう。


5 COMMENTS

雅之

おはようございます。

「ONTOMO MOOK 究極のオーケストラ超名曲 徹底解剖66 」
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の、マーラー:交響曲第5番についての、例によって金子建志氏の解説を読んでいて、先日来の私の持論に、少し事実誤認があるかもしれないことに気付きました。氏の解説を引用してみます。
…………………………………………………………………………………………………………………………………..
 マーラーの作品を、シューマンとクララや、ワーグナーとマティルデ・ヴェーゼンドンク夫人のそれのような私小説的な側面から紐解こうとした場合、最も重要な地位を占めるのがこの第5番だ。マーラーの作品を積極的に取り上げたメンゲルベルクは、指揮者として使用したスコアの第4楽章アダージェットの1ページ目の欄外に以下のようなメモを残している。〝このアダージェットはグスタフ・マーラーのアルマへの愛の宣言である! 手紙の代わりに、この曲の手書きの楽譜を彼女に送ったわけである。それもことばは一言も付さずにである。アルマはすぐにその意味を解し、「ぜひ、いらっしゃい!!!」と彼に返事を書いた。(これは、ご両人から聞いたことである!) W.M.〟(キャプラン版のファクシミリ解説書より転載)
 
 ふたりの出逢いはマーラー40歳、アルマ22歳の1901年11月7日。ただし前半の楽章は同年7~8月にすでに書き進められており、交響曲全体も当初は全4楽章になるはずだった。ご承知のように、アダージェット楽章の主題はフィナーレとなる第5楽章において、軽やかな衣裳を纏って再現され、副主題的な重責を担うことになる。つまり、この〈アダージェット〉の楽想は、ある程度、骨子の固まった交響曲の構想の中に、いわば割り込む形で大きな地位を占めることになったのだ。

 当時マーラーは、ハンブルク時代に恋仲となったソプラノ歌手のA・ミルデンブルクとの関係を清算できずに困っていたため、その重しが前半の2楽章に反映しているという説も。前半2楽章の重圧感の中に、突然、降って湧いたかのようなニ長調のコラールが燦然と鳴り響く。そこでは、その光明の意味は明かされぬまま再び闇に閉ざされるが、その答は、後半の2楽章で示されることになる。トリスタン風に言うなら、中央を分断しているスケルツォ楽章のアルプスを超えたあと、〝昼〟が〝夜〟に克ったことになるのだが。

 知り合って4ヶ月後の1902年3月9日にふたりは結、11月には長女マリア・アンナが誕生。結婚後、作曲を禁じられたアルマは第5番の作曲の途中から、スコアの浄書を手伝うようになった。この〈アダージェット〉もマーラー自身による自筆スコアと、アルマによる浄書のふたつの筆写譜が残されていたのだが、これが1992年にキャプラン財団によってファクシミリ化されたことにより、興味深い事実が指摘された。始まってすぐの主題の旋律線(第3小節)に違いがあるのだ。・・・・・・(同書124ページより)
…………………………………………………………………………………………………………………………………..

以下、興味深い事実が次々と指摘されていくのですが、要は、冒頭のトランペット・ファンファーレが、本当に1901年11月7日にアルマと出逢う前の、同年7~8月にすでに書き進められていたのなら、先日来の私の、アルマの才能を家庭に封じ込める決意表明といった仮設は、脆くも崩れることになります。
マーラーは当時、ハンブルク時代に恋仲となったソプラノ歌手との関係を清算できずに困っていたため、「結婚行進曲」をひっくり返した「葬送行進曲」を着想し、A・ミルデンブルクと別れることを楽想に託した・・・、何だかこれでは「ありきたり」な説になってしまいますが(苦笑)、やっぱり真相はそんなものなんでしょうかね?

マーラーにとってアルマが「ファム・ファタール」〈(仏:Femme fatale) 男にとっての「運命の女」 運命的な恋愛の相手、もしくは赤い糸で結ばれた相手)の意味。また、男を破滅させる魔性の女(悪女)のこと。〉
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AB
だったのなら、ジョン・レノンにとってもオノ・ヨーコは「ファム・ファタール」だったのかもしれません(年齢の上下関係は逆ですが)。

「ファム・ファタール」との出逢いと共同作業があったからこそ、彼らの作品はより深みを増し、大きく発展していった・・・、でも、「発展」と「破滅」は、この分野でも紙一重なのかもしれませんね。

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雅之

さっき、10時の「おやつ」のときに閃いたんですが、
芸術って根本的に、「ハイリスク・ハイリターン」なのかも・・・。

・・・・・すなわち、「どうなるか分からない度合いが大きければ、リターンは利益および損失のいずれの面においても大きくなる」ということであり、この対義語である「ローリスク・ローリターン」は「どうなるか分からない度合いが小さければ、リターンは利益および損失のいずれの面においても小さくなる」ということである。「不確実性」といっても、「良い方向が実現する」「悪い方向が実現する」の両面のことを言っているわけである。・・・・・・太田忠さんのブログより
http://ameblo.jp/tadashiohta/entry-10483038893.html

行方がどうなるかわからないのが芸術の醍醐味なので・・・。

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岡本 浩和

>雅之様
こんばんは。
ご紹介のONTOMOムック、所有しておりますがマーラーの箇所はきちんと読んでおりませんでした・・・(汗)。
ご指摘いただき早速今読んでみましたが、「なるほど」ですね。

>ジョン・レノンにとってもオノ・ヨーコは「ファム・ファタール」だった
>「ファム・ファタール」との出逢いと共同作業があったからこそ、彼らの作品はより深みを増し、大きく発展していった・・・

おっしゃるとおりですね。恋愛や結婚というケースではファム・ファタールということになるでしょうが、ファニーとフェリックスについてもほとんど近親相姦的な「恋愛感情」に近いものがあったのではないかと僕は推測します。アルマもマーラーの作品に手を加えたり、アドバイスをしているようですし、ジョンの作品についてはそのほとんどがヨーコの存在なくしては生まれ得ないものです。もちろんフェリックス・メンデルスゾーンの名作たちもファニーの力があってのものでしょう。
形はどうあれ、互いの存在があってこその化学反応がいずれの作品にもあるのだと思われます。

それにしても音楽の世界というのは深いですね・・・。これほど面白いものはないとつくづく思います。

>芸術って根本的に、「ハイリスク・ハイリターン」なのかも・・・。

ということでしょうね。冒険がないと何の面白みもないですよね。後世にまで残るものはほとんどそうだと思います。

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