
時折、アレクサンドル・スクリャービンに僕は挑む。
神秘主義に傾いた時期の彼の作品に没入することは正直難しい。
しかしながら、ショパンの音楽に影響を受け、そこに独自のイディオムが刻まれた、しかしラフマニノフの場合とは少し違う、後期ロマン派風の超絶技巧音楽については心から「是」とする自分がある。
久しぶりにアナトール・ウゴルスキによるスクリャービンのソナタ集を聴いた。
初期から後期へと、そのどれもが素晴らしい作品群だとついに僕は思った。
沈潜するロマンティシズムは、時間と空間を超越して心魂に響く。そこには他の作曲家にはない「何か」が確実にあると感じられた。意識を拡張せよと彼は言うのだ。
スクリャービンにとって、ピアノ・ソナタの作曲は、常に他に類を見ない知的探求であり、それぞれのソナタは作曲家自身の運命を映し出す鏡となった。10曲のソナタは、作曲家の人生と作品の発展が螺旋状に展開していった様子を、明らかにする。
最初の3つのソナタ(1892~98年)は、危機と夢を伴う青春そのものを表わしている。スクリャービンの伝記では、この時期は、音楽院の卒業、作曲家及びピアニストとしてのデビュー、その後の結婚、最初の大きな成功(ピアノ協奏曲の初演)、世界から認知されることになる兆候が現れた時だった。ソナタ第4番(1903年)は、彼の作品と人生の両方における重要な転換点、変化を示している。スクリャービンは教職を終え、海外旅行をし、再婚する。作曲においては、壮大な交響曲形式を放棄し、洗練された、繊細なテクスチャーを好むようになる。ここで螺旋は決定的な方向転換を迎える。スクリャービンは人生の最後の10年に入り、新しい時代への出発を表わす2つの作品を連続して作曲する。それは、ピアノ・ソナタ第5番と交響曲「法悦の詩」(1907年)だ。
1910年、作曲家はモスクワに戻る。彼の私生活は落ち着きを取り戻し、創作力は絶頂期を迎えた。彼は管弦楽とピアノのための「プロメテウス」と、その付随作品であるピアノ・ソナタ第6番から第8番を作曲する。これらのソナタは、かつてないほどの音色の凝縮と、同時に外面的な形式における矛盾を孕んでいる。
続くエピローグには、最後の2つのピアノ・ソナタ(1912年~13年)が収められている。スクリャービンは新たな高揚感を追求し、「音楽の神秘」の入口に立ったが、結局のところ幾つかの草稿を除き、実現されることはなかった。彼の才能は最高潮に達し、初期の頃の究極美を捨て去るのだ。作風は簡素化され、その突然の死を考えると、彼の最後の作品は、音楽が一層超越的な領域へと溶け込もうとしているのがわかる。
(レオニード・ガッケル教授)
10曲のソナタはそれぞれに特長的であり、そこには大きな変革が常にある。
ベートーヴェンは、音楽創造を糧に悟りの境地を開いていったが、スクリャービンはむしろ狂気の世界に入り込んでいったのではなかろうか。そんなことをウゴルスキの演奏を聴きながら僕は夢想した。
ウゴルスキの弾くベートーヴェン。
一方で、ウゴルスキの弾くスクリャービン。両極に拡散するその音楽美はアナトール・ウゴルスキの指によって一層はっきりとしたものになったのではなかろうか。
何だかこれは、ウゴルスキの遺書のようなものではないかと過った。
なるほど、今日は(生きていれば)彼の84歳の誕生日ではないか。
少し早過ぎたその死は、実演に触れ得なかった僕を、当時、打ちのめしたけれど、残された録音のすべてが現代の僕たちへの、あるいは未来の音楽愛好家への至宝となるべきものだと思う。
スクリャービンのソナタ第1番ヘ短調作品6は、一種の音楽日記と言えるだろう。それは、彼の青春時代のとても個人的な経験に基づいており、作曲家自身が述べているように、「自殺」というテーマも含まれている。ここでは、ショパン、シューマン、リストといった巨匠たちの音楽言語、つまり彼が聴いて育った音楽言語が駆使されている。特長的なのは、終楽章が「葬送行進曲」であり、これが痛ましいほどに憂鬱な緩徐楽章への橋渡しとなっているのだ。
嬰ヘ長調のソナタ第4番作品30もまた、星明りと天体の象徴に満ちた音楽であり、作曲家の草稿プログラムさえ存在するのだ。この作品はスクリャービンの作品における転換となる。彼は伝統的な循環ソナタ形式を放棄し、2楽章構成への作品へと移行する。それらは、まるで2つの円や波のように互いに関連し合い、完璧な音色と主題の統一性を形成している。衝動的なリズム、緊張感に満ちた「光り輝く」音、そして支配的な高音域が聞えてくる。
ソナタ第6番作品62(第7番作品64及び第8番作品66も同様に)では、音楽の真の革新を目の当たりにする。古典的なソナタ形式は維持されているが、最も重要な原理は「炎への溶解」となる。主題は繰り返され、循環することで緊張感を高め、「音楽的プラズマ」の輝きを増していく。解決方法は様々で、第6番と第8番のソナタでは、音楽は反復的なリズムの振動へと消え去る。
同時代の記録によれば、スクリャービンはソナタ第9番作品68「黒ミサ」について、「これこそ真の悪だ」と評したという。それまでの音楽的慣習を覆す、劇的な様式の変容が起こったのだ。彼の音楽言語はかつてないほど簡素で、リズムは厳格に規定されていた。そして、音楽の神秘的な美しさがこれほどまでに歪められたこともかつてなかった。ここでは、それは行進曲へと変貌を遂げている。
スクリャービンのソナタ第10番作品70もまた斬新な作品である。軽やかで、煌くような雰囲気を醸し出している。明るく虹色に輝く音色で彩られ、高音域とトリルが支配的である。最後のソナタは、まるで印象派的な音風景のように浮かび上がってくるのだ。
(レオニード・ガッケル教授)


