ショルティの「神々の黄昏」を聴いて思ふ

深夜に大音量でワーグナーといきたいところだが、さすがに憚られる。
でも、でも、今夜もやっぱりワーグナーとなる。もうすぐバイロイト音楽祭が開幕する。今生でとにかく一度は行ってみたいと思う場所だが、そはいかに?

他人を恐いと感じるなら、あるいはもしも他人に恐怖を感じるならやっぱりその相手との次元が異なるのだと最近の僕は考える。おそらくそのことは間違いないように思うのだが、いかんせんロジカルな証拠がない。もちろんそれは次元が高いとか低いとか、そういう問題ではない。そもそも「居る」位置が違う、住む世界が違うというだけの話である。

ジークフリートはブリュンヒルデに出逢い、恐れというものを初めて知った。そして、幸か不幸か、そのことが結果的に彼に死をもたらし、神々の没落を招くことになる。英雄ジークフリートは恐れを知ったばっかりに、たとえそれが必然であったにせよ、誤った道に進むことになったということだ。しかしよくよく考えてみると、昔ベジャールが彼のバレエ団で「指環」を振付した時に、そのことがすなわち再生につながることを暗示していたように(記憶違いかもしれない)、死というものは決して不幸なことではなく、現世の卒業であり、新しく生まれ変わる分岐点であるゆえ、恐れや不安というものがあるから人間は人間らしく生き、この世を謳歌できるんだと考えることも可能だ(「アミ3度目の約束」のアミの言葉にもあるように)。

そう、何人にも禍福があり、栄枯盛衰が世の常、それによってバランスが保たれていることを正面から受け止め、理解するるべきなのである。そして、ワーグナーが言うように最後は「愛による救済」しかない。

ワーグナー:楽劇「神々の黄昏」
ビルギット・ニルソン(ブリュンヒルデ、ソプラノ)
ヴォルフガング・ヴィントガッセン(ジークフリート、テノール)
グスタフ・ナイトリンガー(アルベリヒ、バリトン)
ゴットロープ・フリック(ハーゲン、バス)
クレア・ワトソン(グートルーネ、ソプラノ)
ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(グンター、バリトン)
クリスタ・ルートヴィヒ(ヴァルトラウテ、メゾソプラノ)
ルチア・ポップ(ラインの乙女・ヴォークリンデ、ソプラノ)
ギネス・ジョーンズ(ラインの乙女・ヴェルグンデ、メゾソプラノ)
モーリン・ガイ(ラインの乙女・フロースヒルデ、アルト)
ヘレン・ワッツ(第1のノルン、アルト)
グレース・ホフマン(第2のノルン、メゾソプラノ)
アニタ・ヴェルキ(第3のノルン、ソプラノ)
ウィーン国立歌劇場合唱団
サー・ゲオルク・ショルティ指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(1964.5録音)

男と女の関係というのは不思議なものである。互いが安定した状態で、真の意味で「惹かれ合った」その瞬間を捉えることができないと選択を誤る可能性がある。その意味では、地に足が着き、天と直結した状態をいかに保つかが大いなる鍵となる。
(ジークフリートがグートルーネの「忘れ薬」にはまってしまうことは、そもそも彼が恐れを持ったがゆえの不安定さの表れだろう。それにしても陰謀に陰謀が重ねられるこの「黄昏」という物語は「指環」のクライマックスであるにもかかわらず、生きるものの弱さが露呈され、何ともいたたまれない。とはいえ、それが生まれながらに「原罪」を持たされた人間というものなんだ)

ショルティの「指環」に関してはもはや僕があらためて何かを述べることはない。カルショウの仰々しい作り物的なレコーディングは時に鼻につく(耳障り)が、それ以上に世紀のワーグナー歌手たちが勢揃いした見事な音楽に舌を巻く。

これらはあくまで勝手な私見である。
少々酩酊状態で書いているので、間違い、誤植もあるかもしれない。
でも、こういう時には妙案、面白い考えが得てして浮かぶものだ。
さて、終幕ラストの「愛の救済の動機」に包まれて眠りに就くことにしようか。

 


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