アルバン・ベルク四重奏団のブラームス作品51(1976&77録音)を聴いて思ふ

brahms_qartet1_2_abq_1970s024超えられない存在を超えるために、そして自らの理想を形にするために大事なことはアウトプットを続けることだ。
ブラームスは、最初の交響曲を世に問うのに足かけ20年以上の歳月を要した。尊崇するベートーヴェンの偉大な9つの交響曲を前にして怯むのは仕方がない。ようやく生み出した作品こそ自信をもって出版したと思われるが、それでもベートーヴェンと比較することは憚られた。ハンス・フォン・ビューローが彼の第1交響曲をして「楽聖の第10番」と呼んだものの、ブラームスは謙遜と共にそのことをきっぱりと否定した。それは当然のことだ。

ところが彼ほど謙虚な人もいないのである。ベートーヴェンやバッハと並べられたり、《交響曲ハ短調》を《交響曲第10番》などと言われれば、真っ赤になって怒り出す。ある日、ブラームスが自分の作品を練習するため、ホールに姿を見せると、ライネッケがモーツァルトの交響曲のリハーサルをしているところだった(曲名は忘れた)。遅いテンポの楽章が終わると、ブラームスはリーズルに何やらささやいていた。聞こえなかったので、後でたずねると、「あのアンダンテ1曲が書けるなら、僕のKram(がらくた)を全部やっちゃうよ!」
天崎浩二編・訳/関根裕子共訳「ブラームス回想録集③ブラームスと私」(音楽之友社)P201

弦楽四重奏曲についても然り。ブラームスは3つしかそれを書いていないが(それも比較的若いうちに)、あまりに高く聳え立つ楽聖の16の四重奏曲を意識せざるを得なく、最初のものを発表するまでに習作を含め20作以上を気に入らず破棄したそうだ。ブラームスとはそれほどに自己批判精神の強い、自身に厳しい人だった。

とはいえ、残された3つの弦楽四重奏曲はいずれもがブラームスならではの分厚い響きに縁どられ、しかも優しいまなざしと厳粛な音調が交差する名作となっている。その意味では決してベートーヴェンに引けをとらない。

ブラームス:
・弦楽四重奏曲第1番ハ短調作品51-1(1976.6録音)
・弦楽四重奏曲第2番イ短調作品51-2(1977.2&6録音)
アルバン・ベルク四重奏団
ギュンター・ピヒラー(第1ヴァイオリン)
クラウス・メッツル(第2ヴァイオリン)
ハット・バイエルレ(ヴィオラ)
ヴァレンティン・エルベン(チェロ)

ブラームスの場合、どうしてもクララ・シューマンとの関係性を切り離してその作品を考えるということは不可能。作品51-1の第2楽章ロマンツェに聴く静謐な祈りはどうにもクララへの愛の仄めかしのように聴こえるし、終楽章アレグロのユニゾンで奏される激烈な第1主題は作曲者の鬱積した愛情エネルギーの噴出のように思える。

例によってブラームスはこの作品を幾年もの歳月を使い手塩にかけた。書いては捨て、捨てては書いて、すなわちアウトプットを繰り返すことで結果的に自己鍛錬をしていった。

弦楽四重奏曲の作曲に従事しはじめたのは、1860年代後半に入ってからのことらしい。ただし、その素材は、1859年のスケッチにさかのぼるともいわれている。・・・(中略)・・・ブラームスは、その後もおそらくこの曲を手を加えていったようで、1866年8月17日にバーデン・バーデンの近くのクララの住むリヒテンタールにでかけたおりに、8月のクララの日記に「ハ短調の弦楽四重奏曲がブラームスにより演奏された」とあるように、この曲をピアノで試演してクララにきかせた。
「作曲家別名曲解説ライブラリー⑦ブラームス」(音楽之友社)P205

大作曲家が満を持して発表した作品が悪かろうはずがない。そして、結成間もない70年代のアルバン・ベルク四重奏団の実にきびきびとした険しくも柔らかい響きは、当時のブラームスの想いを見事に反映するようで、後年の円熟の演奏とはまた違った意味で推しの一枚だといえる。

同様に、作品51-2の第2楽章アンダンテ・モデラートに聴く崇高な音楽に、クララへの決して叶えられない愛の悲しみの反響を感じるのは僕だけか。あまりに切ないこの旋律に、当時のブラームスの心境が見事に映し出され、ほとんど「私小説」の如くの音調に満ちる。そして、終楽章アレグロ・ノン・アッサイで見事に解放が起こり、すべてが決然と解決される。

 

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