セバスティアン・ヴァイグレ指揮読響第561回定期演奏会

yomikyo_20160823624文句なしにかっこ良かった。
「金の亡者」とどんなに揶揄されようと、その外面的音響効果の素晴らしさは人後に落ちない。この人の音楽もやはり実演に触れねば真価はわかるまい。

オットー・クレンペラーが聞いたリヒャルト・シュトラウスの話が興味深い。

でもシュトラウスは、マーラーはいつも救済を求めていた、と言いはじめたんです。(・・・)彼は一字一句こう言ったんですよ。「わたしのばあいは、いったいなにから救済されなくちゃならないのかわからん。朝、机に向かって着想さえ浮かべば、救済なんかいらないね。マーラーはなにを言わんとしたのかね。・・・」
エーファ・ヴァイスヴァイラー著/明石政紀訳「オットー・クレンペラー―あるユダヤ系ドイツ人の音楽家人生」(みすず書房)P74-75

シュトラウスには信仰というものがなかったのだろうか?いや、そんなはずはあるまい。
ただし、それよりも言葉通り、とても現実的に楽想のひらめきが常にあったのかもしれない。ある意味内容のない、外面的効果に優れた作品は、少なくともそれに触れている瞬間は大いなる感動を与えてくれる。

「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」は、それこそ遊びの要素に溢れる名作だけれど、指揮者もオーケストラも真摯に向き合った演奏となると馬鹿にできない。冒頭と終結に奏される「昔々に・・・」のシーンは、弦が艶やかにうねり、それだけでとても心動かされた。読響の個々の奏者のレベルは高く、木管も金管も素晴らしかった。ヴァイグレの巧みな棒によって紡がれる物語は、澄明な管弦楽によって一層輝きを増した。何よりうるさ過ぎず、音楽をじっくり堪能できた。
そして、「4つの最後の歌」の余計なものを排除した透明感。ヘーヴァーの想いのこもった歌の妙味。声も抜群に通り、最晩年のシュトラウスの諦観がとても美しく表現されていた。特に第3曲「床につくまえに」のあまりの美しさに卒倒(ここでの日下さんのヴァイオリン独奏は絶品!)。しかしながら、この、死に対する恐れを音化した作品が見事に楽観的に歌われている様に少々吃驚しながらも、これはこれでありだと僕は思った。

読売日本交響楽団第561回定期演奏会
2016年8月23日(火)19時開演
サントリーホール
エルザ・ファン・デン・ヘーヴァー(ソプラノ)
日下紗矢子(コンサートマスター)
セバスティアン・ヴァイグレ指揮読売日本交響楽団
・リヒャルト・シュトラウス:交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」作品28
・リヒャルト・シュトラウス:4つの最後の歌
休憩
・リヒャルト・シュトラウス:家庭交響曲作品53

後半は「家庭交響曲」。このあまりに私的な作品は芸術的におそらく賛否両論だろうが、細かい描写云々は抜きにして、純粋な交響曲として聴いたときの感動は結構なもの。音楽が進むにつれ、指揮者の本能と管弦楽は一体となり、シュトラウスの心を見事に表現していた。(グロッケンシュピールではなく)トライアングルによって7時の鐘が前後に鳴らされた第3楽章アダージョの夢見るような恍惚感(例えば、鐘直後の木管による旋律のやり取りはとても音楽的で美しかった)。そして、それまでの主題が交錯し、クライマックスを築いてゆく終楽章の高度な愉悦的解放に思わず唸った。
リヒャルト・シュトラウスはかっこ良い。

 

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